編集人:新井高子書評


水戸の百人―唐十郎戯曲『百人町』書評

 

(唐十郎著『百人町』扶桑社、2010年4月)

 

新井高子


唐十郎戯曲『百人町』

 2010年5月、劇団唐組による『百人町』水戸公演を、追いかけて行ったときのこと。
 上野駅から「スーパーひたち」に一時間ほど揺られて水戸へ着くと、公演まで少しだけ間がある。数年前の水戸公演のとき、唐組の鳥山昌克さんに教わった、「舟納豆」の美味を思い出し、以前立ち寄ったことのある駅前百貨店へ向かう。が、遠目から見ても、うすら寒い雰囲気。近づけば、ガラス張りの店内は、がらんどう。不況のあおりか、百貨店という形態が時代に取り残されつつあるからか、随分前に閉店していたようだ。 
 別の店を探すほどの時間はないので、紅テントの建つ、水戸芸術館広場へ。しだいに夜気を吸う芝生からは、草と土の匂いがぷんぷんして、あぁ水戸に来たなぁ、と実感する。しばらく列に並んでテントに入ると、前から三列目の花道寄りが、スッポリ空いているではないか。新宿・花園神社公演などでは、こんな良い場所にはなかなか陣取れないので、素早く靴を脱ぎ、どかどか座り込むと、隣りのご婦人、花道のすぐ横に座った七十才位のおばちゃんのイデタチが、気になった。
 五月に入ったというのに、かなり冷える陽気のためだろう、座布団を持参し、両腕で抱えた膝には、アクリル毛布が掛かっている。服装は、ウィンドブレーカーのジャンバーとズボン、首にはネッカチーフを巻いている。たしかに夜のテントは寒いのだが、ここまでの重装備は珍しい。にもかかわらず、耳たぶには翡翠色のイヤリングが揺れ、唇はショッキングなピンクで彩っている。防寒と、できるかぎりのお洒落、というか、色気の残骸がナイマゼになった格好に、とても親近感が湧く。なぜって、私の実家の織物工場の女工さんも、まさしくそんな感じだから。
 というわけで、「東京から電車で来たんですけど、車窓から見えた、てっぺんが凹んだお山は、何でしょか?」と、気軽に話しかける(同じテントでも、東京ではこういうチョッカイは、もはやしにくいのだが‥)。思った通り、愛想のよいおばちゃんだった。準備がいいので、常連さんなのかと思いきや、前から来てみかったが、今回が初めてだと言う。唐組のことは、地元の新聞に、よく取り上げられていると言う。
 そんな話をしながら、買い損ねたものが、やはり心に掛かっていて、「舟納豆って、すっごく美味しいですよね。東京ではめったに買えないんです」とつい、こぼしてしまう。すると、「‥あぁ、あたしネ、「おかめ納豆」の工場に、チョイト勤めていたもんで‥」と、声が低い。いくらここが納豆産地でも、隣り合わせた人が生産業者、しかもライバル会社とはシクジッタ‥。「いえネ、もう定年したもんで、たまにはフネ納豆も食べてみるんですが‥」とは、〈ダカラ、食ベタクナインデス〉が真意だろう。
 気まずい間が生まれてしまった。何というか、意気揚々と装備してやってきたらしい、この人の良さそうなおばちゃんのメンツを、幕が上がる前に、クジいてしまったような状況を招いたことに、私は慌てた。端から見れば、どうでもいいやりとりなのに、何とかしなければ‥と、勝手な責任感が湧いた。が、フネをあれほど賛美しておきながら、「オカメもなかなかいい味ですね‥」程度では、定年まで勤め上げた女工を、立てることは難しい。なんせ、私だって町工場育ち。田舎の世間のセマさと、対抗心のクドさなら、なめ尽くしている。
 おかめ納豆をめぐる私の全体験が、三倍速の走馬燈のように、頭の中を駆け回り、ハッと閃いた。「あ、あの、イッチバン日本で最初に、納豆にタレを付けたの、オカメじゃなかったですか。画期的でした、アレ!」。ニンマリと、おばちゃんの口角が引き上がる。何とか合格したことに、私の肩はホッとする。手のひらには、汗が吹き出ている。この一言をひねり出すために、かなりのエネルギーを使ってしまった。
 「アーンタ、よくわかってる! あのタレ、うちと正田醤油が組んでネ、開発したの。いえ、いまは正田サマじゃない、べつんトコとやってんだけどサ‥。知ってるでしょ? あすこは美智子サマのご実家なのよ、正田サマは。だから、おかめ納豆のあのタレは、ニッポンの皇后陛下サマゆかりなんですー」。大きく出た、おばちゃんも。鼻タカダカ、穴マンマルになった。
 発砲スチロールの蓋と納豆の間にヒョイとはさまる、ビニール小袋の茶色い液体。そのイジマしい液体が、この島国のクイーンがらみだというのは、たぶん事実なんだろう。そういうことだってあるだろう、あっていい。が、おばちゃんの自信満々なまくし立てと、「美智子皇后」と「ネバネバ納豆」が紅テントのゴザの上で電撃結婚してしまうシュールな展開に、天皇制をどう考えるかと全く関係なく、乗り遅れそうになる。手の汗さえひかない私は‥。
 そこに、ひた走る足音。芝居の前口上が始まるのだ。ちょっと目配せして、私は背筋を伸ばす。おばちゃんも舞台の方へ向き直る。割れんばかりの拍手の中、『百人町』の幕が上がる。


公演『百人町』チラシ

 開演前の個人的な出来事を、長々と書いてしまったが、どうやら、この芝居を読み解くための絶好の前振りを、私は授かっていたらしい‥。じつは、唐十郎の戯曲『百人町』は、巷に生きる庶民たちの、このような「メンツ立て」が幾すじも織り込まれたテキスト、一見、たわいないやりとりなのだが、たわいないからこそ、それまでの来歴や誇りが噴出する、言わば「面目合戦」のごときテキストではないか。私はそんな庶民の視点から、この戯曲を読み解きたいと思う。
 戯曲の舞台は、新宿・大久保の百人町一丁目にある、ラーメン屋の店内。JR高架下のぼろアパート街にある「味龍」。唐ならではの、筋の錯綜をあえて整理するならば、2009年の戯曲『黒手帳に頬紅を』を論じたときと同じく、世俗的な出来事が展開するA面と、心の内面が露出するB面に内容を便宜的に分けて、その合体をあらすじとするのが良さそうだ。内面を絵づら化して、つまり「出来事化」して劇空間の中に挿入し、錯綜した具象劇を仕立て上げてしまうのが、この劇作家の真骨頂の一つだが、今回もそんな筆が冴えていた。
 世俗世界のA面は、ぼろアパート街の再開発が、進められつつあることを背景にしながら、戯曲の主役、出前持ちの丁屋が働く「味龍」で、支店長を務めるシナチクが、うまい口車に載せられて、経理を任せている計理士に、店の土地権利書まで手渡してしまったことを、発端とする。その計理士は、自分の借金返済にそれを当ててしまったため、権利書は「味龍」裏の病院へ渡る。その院長・百足(ももたり)は、ラーメン屋を壊して、モダンな病院を拡張する計画を推しすすめている。そんな再開発に抵抗する丁屋は、同じ町会の家具屋に勤める不思議な女、八丈島の島言葉も話す丈(たけ)と、恋に落ちながら、ともに奮闘し合い、シナチクの手元に、何とか権利書を戻す。今回は、久しぶりに恋愛色の濃い戯曲とも言える。
 一方、内面的なB面は、例えば『黒手帳に頬紅を』が、元炭坑夫から託された「手帳」というモノに、主役がとことん執着することから始まる、ある種、引きこもり的な「妄想」劇だとしたら、今回は、趣きがだいぶ異なるようだ。『百人町』の主役は、パラノイアの核になるほどの強烈な執着を、担わされていない。かわりに、複数の登場人物たちが、自分の職業や来歴に、激しい思い入れをそれぞれ持ち、それらがぶつかり合うことで、戯曲は錯綜する。つまり、今回のB面は、心の一本道を掘りすすめるのではなく、乱立する心の群像劇、百人町に散らばった「誇り」の群発劇、と言っていいのではないか。しかも、それらは、言わば、大文字のソレではなく、小文字。おばちゃんと私の開演前のやりとりのように、瑣末さの中でメンツを探り、主張し合い、その結果、やりとりは奇妙に飛躍する。買い損ねた納豆への心残りを漏らした相手が、ライバル会社の元工員だったのは、ギョッとする巡り合わせだが、おばちゃんの側からすれば、筑波山も知らないトボケ女が、迂闊(うかつ)な一言のフォローのためにナケナシの知恵を絞ったにせよ、タレ袋というマニアックな物体で、いきなり会社を持ち上げ出したのに、ギョッとしたはずだ。タカダカと、皇后が引っ張り出されるシュールさは、お互いのメンツ立てが相乗し、舞い上がった結果だ。

 B面の中心はどうやら、丈(たけ)のようである。丁屋と同じく百人町で働く丈は、離島の生まれで、その瞳には、故郷の景色が焼き付いている。劇中、「あたしには、百人が町ん中、立ち泳ぎしているように見えんです」という印象的なセリフがあるが、それゆえ百人町を見渡すとき、彼女の眼には、町なみや人なみが、海原の波とダブってしまう。つまり、B面は、丈の瞳を、海の入口と見立てたところから広がる、水の世界、水の幻視のようである。彼女の心は、海人(あま)という生業にこだわり続け、実際、水にマミれるのを厭わない。そんな丈と恋に落ちるのは、ロートレアモンの散文詩『マルドロールの歌』に心酔する丁屋。その詩のくだりにあるような、大海原の幽霊船があるならば、そこへだって「味龍」ラーメンを配達したいと思い込んでいる、生粋の出前持ち。この戯曲において、「恋愛」とは、丈の瞳が幻視する水の世界を、丁屋が覗き込み、引き寄せられて、ともに水マミレになることとして、具象化される。
 そこへ、「敵役+大ボケ役」として登場するのは、医師・百足。ムカデの身振りで腹這って登場する彼は、水辺、すなわち水は被らないが、その際近くを這いずっている、毒虫の面影を背負っているのではないか。そして、彼は、生と死の境い目を司る医師という職業、その業務拡大に強烈な自尊心を持っている。百足の支援者で、病院を資金援助している中年女、立川は、競走馬のオーナーでもあって「虹のヘレン」なる馬を溺愛している。なぜに「虹」かと言えば、それが雨、つまり水に打ち勝って出現するものだから‥。かくして、水女の丈とは相性が悪い。
 こんな人物構成、あたかも水系人とアンチ水系人の、果たし合いのような構成の中で、自分の誇りや来歴などを主張し、相手をなぶったり、ぶつかり合ったり、居直ったりしながら、展開は奇妙な飛躍を見せていく。例えば、百足たちが丈をいたぶるために持ち込んだ、病院の氷枕の冷や水を、海人を自分に重ねる丈は、「百人町の涙」として、むしろすすんで浴びようとしてしまう。目から溢れる涙という、甘くも辛くもある情けの汁を、彼女は、海の名残りと感じたいのだ。また、丈の瞳に入ったゴミを丁屋が覗き、取り出すという、半ば医療的にもなりうる行為が、二人の恋のはじまりであったことに対しては、医師の百足が、自分の仕事を取られたとひどく嫉妬する。そして横やりとして、丁屋との間で、互いの眼にラー油を掛け合うストラッグルを始める。また、別の場面では、立川が愛馬・ヘレンを使って「虹」のイメージを広げるが、丁屋と丈は、それを掻き消すため傘をさし、つまり雨という「水」を呼び込もうとし、ヘレンを横取りしてむやみな暴走を始める‥。このような素っ頓狂な光景の連発に、客席は大笑い。

 そして、劇の終盤には、丈が宝物と思ってきた、化粧箱のルビー色の玉、丈と百人町の、瞳と心の水底に沈んでいたらしい紅い玉が、登場人物それぞれの誇りの「争点」になる。「味龍」の土地権利書を奪還した丁屋は、ギリシア神話の英雄、アキレウスのようだと、皆から称賛される。そして、丈は、彼に褒美のようにルビー玉を渡そうとする。が、奪還された百足と立川の方は、

立川 百足、これでいいの?
百足 これではいけません
立川 馬糞の権利書も摑みだされ
百足 ヘレンも泣きます
立川 以上に、このルビーのガラス玉が、今、あたしたちを笑ってる

ここで立川は、土地権利書、すなわち「お金」よりも、この一件で自分たちが笑い者になる、すなわち「メンツ」が踏みにじられることの方を、不快に思う。つまり、二面に分けたあらすじで言えば、世俗的なA面はさておき、内面的なB面、メンツ合戦では譲れない、と声を荒げる。紅い小玉は、そんな面目の象徴となり、立川は百足に、金槌で叩き割ることを指示する。その玉が、財産的には無価値の「ガラス製」であることは、庶民感覚の反映である以上に、むしろ掛け値なしの「固まり」として、唐がメンツを凝縮させたいゆえだろう。もちろん、立川らのふるまいに、丁屋は黙っていられない。

丁屋 待ってくれ
 (略)
百足 じゃ
立川 あれは
百足 お前が、アキレウスになって、喰いとめろ

権利書を奪い還して、皆から持ち上げられた丁屋、丈のヒーローになりきりたい丁屋は、百足に売られたケンカを、躊躇なく買って、ルビー玉を守ろうとしたがる。すなわち、出前持ちから「百人町のアキレウス」へ舞い上がることが、もはや彼の「メンツ」となってしまっている。丁屋は、金槌が振り上げられている台上へ、片足を投げ出す。そして、玉のかわりに、自分のアキレス腱を射抜け、とタンカを切る。古代ギリシアの英雄を真似て‥。そこに、百足は錐(きり)を当てる。

丁屋 いけ、そんなの、くわえこんじゃる
百足 もう皮に入ってる
立川 まぶしく、あたしを、あざ笑ってる、このまが珠は

ルビー玉を核に、メンツとメンツの、抜き差しならない衝突が起こったとき、丈は、「割って」の一言を、低く発する。立川の金槌で、玉は、無惨にも破片に‥。丁屋と、立川+百足のメンツ合戦は、立川らが勝利したかに‥。が、玉を割らせたその一言は、八丈島から独りぼっちで上京した娘が、ようやく出会った恋人を守ろうとする「誇り」、彼女のそんな新しい誇りが、台上へ振り下ろされた結果でもあった‥。

 このクライマックスに、観客たちは息を飲んだが、登場人物それぞれが、自分を、また自分の大切な人を、必死に支えようと自尊心や誇りを立てるからこそ、言葉や行動は行き過ぎて‥、行き過ぎを受けとめようとすればこそ、さらに行き過ぎて‥。そんな連鎖の中で、彼らが織りなす光景は、何ともシュールだ。が、それは、日常で起こっている些細な一コマを、唐十郎が丁寧に切り取り、彼らの内面を具象化して「出来事化」するために、いくらかデフォルメを施しただけのようにも感じる。開演前の、おばちゃんとのやりとりを思い浮かべるなら‥。
 庶民の気負った日常の中では、シュールなんぞ、テンコ盛りだよ、と言いたげな戯曲だ。その意味で、これは、劇中で紹介される『マルドロールの歌』、シュールレアリストの貴族的バイブルへの冷やかしを、ちょっぴり含んでいるのかもしれない。いや、このような方法は、南米の小説家たちによるマジック・リアリズムの方にむしろ近しく、唐は、戯曲という分野で、同時多発的に着手し、独自の経路で開拓を続けてきた。その結果の、一つの提示と言うのがよいか‥。

 観客たちは、つぎつぎに連発される、そんな飛躍した光景に、腹を抱えたり、仰天したり、あるいは冷笑したりもするのだが、じつはこんな反応が、今回の戯曲における、劇作家の重要な「作為」の表れだと、私はにらんでいる。もちろん、唐の戯曲は、どれも可笑しさやマガマガしさが入れ込まれているのだが、それにしてもこの作品は甚だしい。唐は、「笑う」などの反応を、戦略的に利用して、おそらくこの町の「野次馬役」として、観客を劇空間に取り込もうとしているのではないか。古代ギリシア劇風に言えば、「コロス役」を、客にやらせたがっているのではないか。
 私がもっとも好きなセリフの一つが、劇作家自身の扮する、乱々歩次郎が終幕で発する言葉、「乱々、もっとよろけろ、この百人町に入ったからにはっ」なのだが、じつは乱々だけでなく、このセリフを聞いている観客こそを、町の通行人として「百人」に入れ込め、よろけさせたがっているにちがいない。芝居の前半、ラーメン屋台を引く麺小路なる男が、客席を見回しながら、「百人町の人々が‥」と、それとなく観客を指さすシーンさえあるが、劇中、何度も連呼される「百人町」という言葉は、新宿区内の地名であると同時に、いや、それを装いながら、じつは役者、観客の区別なく、テントに集まった人間たち全員の集合名、「百人」町としてすり替わっていく。戯曲タイトルがシンプルなのは、それに二重の意味を背負わせているからなのだ。
 役者と観客が接近し、その線引きを曖昧にできるテント空間は、このような戯作術に、まさに打ってつけ。笑いという形で、劇に声を挿し込むことで、客は「百人の役者」にひっくり返ってしまう。街頭劇にのめり込んでいた、青年期の唐のセンスも、活かされているのかもしれない。確信犯的な軽喜劇と、この戯曲をひとまず評してもいい。
 そしてその上で、例えば、隣りのおばちゃんを見やるなら、勤め上げた納豆工場を「誇り」とするこの人こそ、そんな百人町の典型で、舞台にすぐ駆け上がっていいほどの、泣き笑いを繰りかえしてきたに違いなくて‥。口を開けて笑っているあの人、あの人、あの人も、じつはみんな誇りと涙の生き物じゃないか、不況の風にあおられて来た人もいるんじゃないか‥と勘づき始めると、この「百人」に異様な奥行きが生まれて、そら恐ろしくもある。シュールでもマジックでもない、ウルトラ・レアルな群像劇を感じてしまって‥。
 ただ、こんな感覚は、水戸のお客さんにも、かなり後押しされている。隣りのおばちゃんだけでなく、押し並べて、主張が強いのだ。待ちきれない開演に、勝手に拍手を始めてアピールする人。おそらく統合失調症の気があるのだろう、たえずブツブツ言いながら芝居を見ている人。膝枕で子どもをあやしつつ、ゆったり舞台を見上げている人。静かな場面なのに、腰を浮かせて景気のいい放屁をする人‥。贔屓の役者が登場したときの掛け声も、最近の東京では名前ばかりなのに、「待ッてました!」「大統領!」が飛んだりする。
 ここは新宿の大久保ではないのだけれど、じつに積極的な、野次馬たちの「百人」町が成立していた。芝居を見に行くということは、客が、「客を演じる」ことでもあるんだな、と唐と水戸に教わりもした。夜半はとくに冷えこむ、吹きッさらしの風、駅前一等地のビルさえ何ヶ月も埋まらない、そんな町角の状況の風とも、この劇曲は響き合っていただろう。テントという薄皮一枚で‥。

 例によって、楽日まで何度も通ったので、公演を重ねるごとに、唐組役者陣が戯曲の行間を読み込み、芝居を練り上げていくプロセスを堪能できたが、水戸公演はその点でも、大きな変化、芝居の脱皮の瞬間だった。じつは私自身、戯曲を最初に読んだとき、セリフの徹底したエコノミーの前に、ちょっと立ちンボしてしまったのだが、この公演あたりから、肉体が言葉を実体化するツボを、役者たちはしっかり掴んだように見え、そうすると、私もまた、本にシャブり付けるようになり‥。
 行間を気持ちで埋める、切ないまでのリリシズムを編み上げた、稲荷卓央(丁屋役)はじめ役者陣に、脱帽。ことにクールでもオトボケでもある百足を演じた辻孝彦は、新境地、かつハマリ役。生死の境界線上の毒虫、医師という高飛車な存在を、辻は一種、白痴的にも演じることで、巷の有象無象の一人に落とし込んでいた。その批評的な演技は、テントに成立する「百人」町の声のボリュームを、一層盛り上げていた。実際に八丈島で生まれ育った、赤松由美(丈役)の役者としての成長も、テント通いする大きな楽しみの一つだった。光線の加減によってか、本当に青く輝く瞬間のある赤松の瞳、島の女の美しい眼球に、この水の戯曲は捧げられてもいただろう。
 ここ数年、戯曲の言葉が淡白な傾向にあるので(ルビー玉の由来などは、もう少し書き込まれていてもよいと思う‥)、来年あたりはコッテリ系もいいなぁと思うが、芝居を見ている水戸のおばちゃんは、明らかに胸を高鳴らせていた。紅テントは、強力なファンを、また一人、獲得したようだ。
 屋台崩しの後、丁屋が引き、丈が股がる馬が旅立つのだが、テントの裏手に壁がある水戸公演では、行く手の方角に、彼らの影が大写しで投影された。無茶な道行き、百人町のドン・キホーテとサンチョに、ぴったりな絵づらが浮かび、客席の野次「馬」たちも喝采で見送っていた。

(詩誌『ミて』111号初出改稿)

* 唐十郎著『新作戯曲 百人町』(『en-taxi』29号、別冊付録)、扶桑社、2010年4月
* 劇団唐組・2010年春公演『百人町』(4月24日–6月13日、大阪・東京・水戸)
作/演出:唐十郎
配役:丁屋(稲荷卓央)、丈(赤松由美)、百足(辻孝彦)、流里江(藤井由紀)、津守道(鳥山昌克)、麵小路(久保井研)、立川(大美穂)、乱々歩次郎(唐十郎)、ほか唐組役者陣
水戸公演:水戸芸術館広場・特設紅テント(5月14日–16日)