編集人:新井高子書評


不条理な意地と渦―唐十郎戯曲『ひやりん児』書評

 
 

新井高子


唐十郎戯曲『ひやりん児』

 あの日から、新聞には「被災者の声」という欄ができた。しばらくすると、「いま伝えたい」に名前が変わり、最近は、主に「◯◯日記」(◯◯には町の名前が入る)として、東北の声が報じられる。そこに目を通すのが習慣になったが、福島の双葉町から避難した72才の男の言葉に、ハッとしたことがある。

「避難所だった埼玉県の高校で、一カ月間暮らした。ル―ルを守れない人には文句を言い、『煙たいおやじ』だと思われていたが、長い避難生活では我慢してやり過ごすわけにもいがねぇんだ。三十年以上も左官をやってきて、震災の時には仕事が終わった現場が二件もあったのに、発注者が避難してて請求もできない。残念なことばっかしだげんと、原発にも近いんだげんと、でも双葉町に帰りたい。早く帰って、やり残しの壁を仕上げなくちゃなんねんだ」
(髙橋政夫さん、2011年5月15日付朝日新聞)

 読みながら、唐十郎の戯曲の声が蘇った。もちろん、この左官屋は、唐の芝居も本も見ていないだろう。が、やり残しの壁にこだわって、そのひと塗りのコテをかざしたくて、壁が俺を待っていると強烈に思い込み、巷を七転八倒しながら、煙たがられながら、すでに幻かもしれないその壁に、異様に接近していく…。そんな人間の姿を、このところ、唐十郎は書き続けてきた。窮地に陥った人間がどんな言葉を吐き出すか、何を掴もうとするか、それをどう継いだらいいか、下を向いて拾い集めて…。
 聞くところによると、『ひやりん児』(読み方・ひやりんこ)の戯曲は、2010年6月にすでに書き上がっていたとのこと。が、芝居を見た多くの人は、震災や原発事故と繋げてとらえる。私たちの作品を見る目、聞く耳は、2011年3月11日を境に大きく変わった。そして、この戯曲には、「震えが止まらない豆腐」が水中を漂い、また「ストロンチウム」や「一号機」「二号機」という、事故以前にはほとんど聞いたことがなかった言葉がヌッと顔を出す。唐の予言的なアンテナに私ももちろん驚いている。が、高度成長を経ても、浮き足立ったバブルを経ても、今日の空々しいシステム強権社会(ゆえに、一部のパイプが折られただけで、たちまち無能化する)においてさえ、彼は、巷にテントを運びながら、戦争直後の東京下町の「焼け跡」を幻視してきた。そのド乱視めいた、孤独な眼差しを思えば、予言というより、唐十郎が執拗にこだわり続けてきたものに、世の中が不意に近付いてしまった、という方が的を得ているかもしれない。

 『ひやりん児』は、見えない中心が巻き起こす渦のために、人間たちが豆腐のように漂流し、右往左往する芝居と言っていいだろう。舞台上の劇空間は、一見、築地の市場近くの裏ぶれた町角なのだが、どこか水没している雰囲気も漂う。唐の巧みなペン先は、日常的な町に、海底の巷、渦の只中にある路地裏を重ねたようだ。「ようだ」と書いたのは、それは、本当に、「幻」だから。舞台上にくっきり示されているわけではないのだ。時折、道具や舞台装置として、小船のスクリューが旋回したり風呂屋の壁に海の絵が描かれたり、またセリフにそんな断片が現れたりするだけで、「アッ、渦の中か、ここは…」と感じるかどうかは、客に任されている。いえ、それさえ、じつはよくわからない。私が勝手に思い込んだだけかもしれない。だから、このように文字にすると、不安になる。だが、水の渦の中だという「仄めかし」が、結ばれるのを待っている糸のように、あちこちでゆらゆらしているのは、明らかなのだ。
 が、そもそも、観客に幻を見せるには、こういう不安定なペンの技しかありえないか、とも思う。はっきり示したらそれでなくなってしまうではないか…。だが、一般の戯作法では、幻を明示できることが、虚構空間の醍醐味の一つとされているわけで、唐の方法はかなり独特だと言えよう。
 そして、そんな不安定な劇空間に、現実の状況を投影し、その渦の「見えない中心」を、津波の震源や事故を起こした原子力発電所だと観客がとらえても、芝居は成立する。唐の作品はつねに多様な解読ができるように書かれているし、また、この戯曲は、全体の言葉数が少なく、複雑な内容を一言のセリフに託している。もう少し言葉を増やし、セリフどうしが複線的に補完し合ってもいいかと思うが、あたかも詩を聴くように、それぞれの観客がそれぞれの危惧や連想を挿し込める「余白」が広い。今回も、花園神社の初日から楽日まで何度も通ったが、従来より気持ちゆっくりと、ちょっと余韻を残すように、役者がセリフの間合いをつかみ始めた時、芝居がぐんと豊かに、深くなった気がしたのは、そのせいなのだ。

 さて、劇の筋だが、この戯曲は珍しく雑誌や本に掲載されなかったので、観劇の中だけで追うことになった。だから、厳密には「書評」と言えない。破天荒な戯曲に耳だけで向き合うのは、ちょっと心もとないが、それも挑み甲斐と思おう。
 ごく簡単に言えば、求めてくれる大事な人だけを、震えながら、身もだえながら待っている、「絹」という名の「恋する豆腐」一丁が、受難を経てその人に出会った途端、もろくも崩れはてる。いや、思いを遂げて立ち去ろうとする、としていいだろう。が、じつは、これは渦のごく中心近くにある物語で、聞き耳を立てないと浮かんでこない。だから、そこに接したわずか外側の渦をたどるなら、こう言い換えていい。巷の人には売ることのできない、たった一丁の絹ごし豆腐を入れた水槽リヤカーを引き摺って、路地を彷徨う風変わりな豆腐売、「尾加良(おから)」は、大事な人に会いたいという豆腐の一念を叶えるために騒動に揉まれ、それを何とか叶えさせた瞬間、豆腐の屑まみれになる。つまり、尾加良という「人間/豆腐」が、まさしく「オカラ」になり、もはや水だけしかない水槽を引きずって、なお仕事を続ける、と。渦の中心近くには、こんな表裏一体の筋書きがある。よって、この劇の主役は、「尾加良」であると同時に、「絹」ごし豆腐でもあるようなのだ。
 そして、そこから外側へ波及したところにあるのは、こんな物語。江ノ島の芸者「豆月」(それは源氏名で、たぶん、本名は「絹」なのだろう)には、生前、深い仲になっていいと思っていた恋人がいた。それは、紙芝居屋の「乱べえ」。彼は江戸川乱歩作『青銅の魔人』の紙芝居を得意とし、「青銅の魔人」と呼ばれる剣を携え、小指を切り合う愛の契りを交わそうと、ある日、豆月のもとを訪れる。が、すでに時遅く、豆月は他界していた。その後、やけになった乱べえは、飲んだくれ、払えない酒代がわりに、契りの剣を築地のクラブ「渦巻」に渡してしまう。一方、豆月の方は、その一族が、茅ヶ崎寒川町で「豆月庵」という豆腐屋を始める。彼女の恋心をなんとか成就させることが、この店の意地になっている。
 そのまた外側にあるのは、こんな話。豆月には、ライバルの芸者がいた。その名は「夕月」。ある時、二人の芸者が舟遊びの船上で芸を競い合った時、鼈甲の櫛が取り合いになり、紅い玉飾りごと海に落としてしまった。そして、その後、紅い玉(ルビーとも呼ばれる)を探すよう豆月が言い遺したのか、あるいは逸話を知った家族がそう思い込んだか…、ともかく豆月の孫、「水島朱貝」を中心に、豆月庵の面々は、水の中に潜ること、そして玉の発見のために、日夜、修行(?)にいそしんでいる。彼らは、ルビーを、恋心の結晶と思い込んでいるらしい。そして、しばらく前、尾加良は江ノ島の海に潜り、ついにそれを探し当てた。  
 それから、またまた外側は、こんなこと。ルビーが見つかったことを知ったからか、孫の水島は、寒川町を出て、乱べえの剣が預けられたバー「渦巻」のある築地にアパートを借りた。バーにも通ったりするが、ある日、行方をくらましてしまう。じつは、場外市場の中に、豆月庵の豆腐を商っている店を見かけ、手伝っていると、魚の骨が絡まった糸こんにゃくを見つけてしまう。そこで、糸こんの原型が考えたくなって、寺の二階に居候していたところ、その絡まりを解くには、「青銅の魔人」の剣で切るしかない、と悟る。たぶん、豆月と乱べえの絡まった縁が、糸こんと骨に重ねられているのだろう…。
 つまり、この戯曲は、筋立てが同心円のように波及した、それ自体、「渦」状の構成と見てよさそうである。どうやったら、こんなレトリックを思い付くのか、まさしく目がくらみそうだ。水槽に浮かぶ一丁の豆腐は、成仏しきれない豆月の「化身」、ルビーは、彼女の満たされなかった恋、つまり、切りたかった小指の血潮の「結晶」というのが、私の読みなのだが、どうだろうか。そして、ルビーが見つかったいま、豆月庵の面々は、指を切り合うはずだった青銅の剣、乱べえの「化身」でもあるその剣と、玉を行き会わせたがっている。

 ここまでだけでもかなり込み入っているのだが、じつは、舞台上で出来事として演じられるのは、この次の円からである。上に書いた、四つの渦物語のほとんどは、挿話として語りで差し込まれたり、あるいはセリフや歌の端々で仄めかされたりするだけで、具体的には、つまりアクティングとしては演じられない。それらは耳の世界だけにある。しかも、挿話などの仕方も時系列でなく、バラバラに挿し込まれる。よって、観客の目に映るのは、こんな内側の気まぐれな渦巻のために、あっちへ行ったりこっちへ漂ったりさせられる人間たち。ルビーと剣と豆腐を携えたり、落としたり、追い掛けたり、取り合ったりして右往左往する人間たち。実際に見えるのは、そのシッチャカメッチャカなのである。
 ゆえに、この芝居は、観客の評価が分かれたかもしれない。ここまでの耳の世界が聞き取れないと、ワッとドタバタがやって来て、ワッと立ち去る、という状景が目立つ。それはそれで、大渦巻の一つの円を走馬灯のように眺めたわけだが…。

 さて、舞台の幕が開き、観客がまず「目」にする渦は、こんな状景。豆月庵の行商人、「尾加良」は、豆腐一丁が浮かんだ水槽リヤカーを引きずりながら、懐にはルビーを隠し持ち、路地を彷徨っている。その豆腐は、求められても決して売らない。つまり、尾加良は豆月の恋愛代行人でもある。そして、数ヶ月前から音信が途絶えている「水島」を探している。
 築地にやってきた彼が、水島の住んでいたアパートを見つけると、ホステス「路子」を含むバー「渦巻」の面々が現れる。青銅の剣を持っている彼らは、尾加良がルビーを見つけたことを聞きつけ、剣の飾りにしたいからよこせ、ともみ合いをはじめる。が、路子は、自ら胸を切り裂き、そのルビーに自分の血を飲ませたいと申し出る。彼女は、ヒヤリと心を打つ男、つまり「ひやりん児」な尾加良を、ほのかに見初めていく様子。どうやら、恋愛代行人の相棒に名乗りでたよう。
 そんなもみ合いの中、行方を断っていた水島が戻り、尾加良らと再会する。そして、いまや老婆に成り果てた元ライバル芸者「夕月」がルビーを取り返しにやってきたり、また奪い返したり、紅い玉を巡るスッタモンダがしばらく展開される。が、ともかく、尾加良の手に戻る。
 その外側はこんな恋の渦。バーのギャラがわりに青銅の剣を譲りうけた路子は、水島からその謂われ、つまり、乱べえと豆月の果たされなかった血の契りを聞かされる。そこで、尾加良は、路子に「ルビー」と「剣」を引き合わせようと申し出る。つまり、「豆月」と「乱べえ」を出会わせよう、女の指の血の結晶に男の剣を寄り添わせよう、代わりに自ら生き血を流してもいい、と…。小さな置時計の上にルビーをのせ、その傍らで、尾加良がヒヤリと手の甲を切り裂くと、一瞬、時が狂う。乱べえが尾加良に降りて来たのだ。「豆月、久しぶりだな、紙芝居屋の乱べえだよ」と語りかける姿を、豆腐の「絹」は見つめている。しばし流れる麗しい凪のひと時…。
 だが、そんなひめやかな恋愛代行が成し遂げられた途端、渦は大シケになる。巷の人々が乱入し、「夕月」一派は剣を豆腐の水槽に打ち捨てる。水島は、糸こんと骨を切り離すにはこれで切るしかないと、そこへ飛び込む。無惨にも、豆腐は…。いや、積年の契りを果たした豆月が、立ち去ろうとしたのか…。が、崩れた豆腐を顔にぶち当て、屑まみれになった尾加良/オカラは、何もない水槽を引きずって、また仕事に出る。「でも、ひやりん児は、付いてくぜ!」と、腹の底から言い放ち…。

 以上の筋立ては、もちろん複数ある解読法のうちの一つの提示、個人的な推測も含めた私なりの「読み」に過ぎない。文字を辿ることをしておらず、テントに座って追いかけた筋だから、どこまでが戯曲で、どこからが役者の創意で、どこどこからが客である私の想像なのか、その境界線は曖昧になっている。べつの解釈も聞きたいところだ。
 だが、唐が撹拌して構成した劇の内容を、このようにほぼ時系列で並べ直すと、この「渦劇」の逆巻や波及の様子がうまく俯瞰できるのではないだろうか。

 そして、この「俯瞰」の視線があることが、この戯曲のまさしく新しい試みだと私は思っている。じつは、この戯曲には灯台が登場する。と言っても、普通のそれではない。風呂屋の海の絵に描かれた灯台で、内側に入ると、円窓から外が覗ける仕掛けにもなっている。豆月の孫、水島は、築地に借りたアパートから通う銭湯で、こんな絵の灯台の灯台守をしていて、ピカリ、ピカリと灯かりを投げる係でもある。
 思えば、唐の戯曲の中で、垂直方向というか、上から下に視線を投げる存在は、これまでほとんどなかった。少なくともここ十年の戯曲にはないし、かつてなら「オテナの塔」があったが、どちらかというと下から見上げるものでなかったか。この灯台の窓からの目線は、芝居を上から、つまり、渦の巻き様を眺めながら舞台を見てはどうかと、客を誘導しているように感じられる。が、それだけでもないようだ。


夕日の紅テント
(明治大学公演にて)

 この戯曲には、冗談めかして「神」が現れる。豆腐屋でしばしば売れ残るガンモドキ。そこから、カンモドキ、カミモドキと音をずらし、「神とはモドキなのだ!」と説くガンモ牧師が登場するのだ。灯台の絵、すなわち灯台モドキを背にしながら力説するガンモ…。つまり、教会なら聖像の位置が、この風呂屋では灯台になっている。よって、戯曲の中の「神さま」と、これはかなり関わっているはずだ。
 と言っても、この神さま、キリスト教の神のように特権的で絶対的な高位置にいるのでは、毛頭ない。それどころか、町内が見渡せる火の見櫓ほどの高さもない。だから、町の鎮守さまにさえなれそうもない。ご町内の皆さんがわざわざお集りになる、湯気たっぷりの銭湯を照らすだけ。たいへん腰の低い神さまなのだ。「たしかに、これじゃあ神モドキだよなあ…」と、私は呟きたくなる。
 けれど、風呂桶という水槽に、プカリ、プカリと浮いている庶民の白い裸、そんな人間豆腐たちを照らすのに、これ以上の神はいないだろう。
 この論の冒頭で、私は、築地の町角を、海底の巷に重ねた芝居だと書いてしまったが、こう訂正した方がよさそうだ。これは、築地の町を、海に見立てた風呂の水中と重ねた芝居でした、と。渦巻は、海原じゃなく、本当はお風呂のお湯を巻いていたんです、スイマセン、と。いや、違う。唐十郎本人演ずる「水島朱貝」、すなわち、海辺の豆腐屋、かつ風呂屋の灯台守が、豆腐の水槽と銭湯の浴槽、それから大海原を結び付けた、稀有な芝居です、サアご覧やれ、と…。
 唐は、かねてから「見立て」の技法を巧みに戯曲に持ち込んでいたが、この作品でも、自由にやって退けている。水平軸では、同心円をベースに話を錯綜させながら、垂直軸では、豆腐屋と風呂屋と海、3つの液体の渦を、細長い灯台によって串刺しにした芝居、と言ってよさそうだ。
 ということは、この戯曲の「見えない中心」は、灯台だろう。そこから、風呂場を眺めているのは、高神にも鎮守にもならない、神モドキな存在。市井の死者。つまり、灯台守の水島が守ろうとしている「豆月のお化け」ではないか。幽霊が、渦をグルグル回しているのではないか。絹ごし豆腐やルビーを、権化として巷に放って…。
 だが、理に落ちすぎる気もする。やはり、「見えない中心」は、何だっていいような気がする。この戯曲の「余白」を、私たちは私たちの状況に照らし、妄想を巡らせて埋めていく方がいいんじゃないか。中心は、何だっていい、お風呂のお湯を掻き回すことさえできれば! お化けでも、津波でも、原発でも、お湯に潜った水島の青息吐息でも…。唐十郎は、散文でなく、韻文で戯曲が書ける劇作家だから。

 劇の幕切れ、尾加良が顔に豆腐をぶち当てるとき、公演日程の最初の方では笑いが起きていた。私も笑った。だが、そのうち、だれも声を立てなくなった…。芝居が練られていき、主演の稲荷卓央の気迫が観客に襲いかかると、崩れてなお、捨て身の力で巷を行こうとする尾加良、何もなくなった水槽を引きずりつづける豆腐売の「不条理な意地」に、観客はそれぞれの「いま」、震災後の「いま」を重ねたことだろう。
 不条理が屋台を崩した、紅テントでは珍しい芝居だった、『ひやりん児』は…。いや、渦の中心近くにある「絹」という豆腐には、カタルシスめいたものがあったはずだが、あくまで秘められている。豆腐に振り回される、豆腐よりもろい人間のマゾヒズム、いや、それと紙一重の「意地」を、唐は前面に据えたのだ。

 今回、若手役者陣の伸びを感じた。水島が借りたアパートの家主「江島」を演じた土屋真衣、歌のあとで拍手が起きることもあった「夕月」の大美穂、テントを湧かせた牧師「ガンモ」の気田睦、押さえた演技も魅力にとり入れつつある「路子」、赤松由美。
 そして、この公演期間中、もっとも変化した役者がじつは唐十郎であったことも、書き留めておきたい。ピカリ、ピカリと、灯台守「水島」の光度が白熱し出したとき、この芝居が抱える渦は、水際立った。

(詩誌『ミて』115号初出改稿)

* 劇団唐組・2011年春公演『ひやりん児』(4月23日―6月12日、大阪・東京)
作/演出:唐十郎
配役:尾加良(稲荷卓央)、水島(唐十郎)、路子(赤松由美)、藻八重(藤井由紀)、曽根(辻孝彦)、波坂(久保井研)、ほか唐組役者陣