新井高子英訳詩集『Soul Dance』

インタビュー

語り手:新井高子 聞き手:ジェフリー・アングルス


これは、『Soul Dance』訳者、ジェフリー・アングルスが、著者の新井高子に尋ねる形で行ったインタビューです。
アジアの詩や芸術を英語で紹介する、台湾のウェブマガジン「Full Tilt」に、アングルスによる英訳が抄録で掲載されていますが、日本語の原文をここにアップします。
Full Tilt」も、ぜひご覧ください。


ジェフリー・アングルス(J):新井さんは2008年10月31日~11月2日に行われた「東京ポエトリー・フェスティバル2008」の実行委員会のメンバーでしたね。フェスティバルのために、世界各国から20人の詩人を招き、21人の日本の詩人といっしょに朗読をするチャンスを作りました。これほど多くの外国と日本の詩人が顔を合わせる機会は、普段なかなかないでしょうね。面白かったでしょう?

新井高子(T):それは、面白かったですよ! 詩を朗読したりスピーチをしたりするときはもちろんですけど、たとえ黙って座っていたって、一人一人、何か激しく訴える力を持っていました。それが40人も集まっていたわけですから…。
海外からは、アタオル・ベフラモールさん(トルコ)、リチャード・ベレンガーテンさん(イギリス)、リシャルド・クリニッツキさん(ポーランド)、ヨウニ・インカラさん(フィンランド)、韓成禮さん(韓国)、田原さん(中国)…。迎える日本側は、詩人の白石かずこさん、高橋睦郎さん、八木忠栄さん、歌人の岡野弘彦さん、福島泰樹さん、俳人の阿部完一さん、夏石番矢さん…。錚々たる顔ぶれでしょう? とっても濃密な時空間、作ることができました。

J:フェスティバルは実りが豊かだったでしょう?

T:ええ、このフェスティバルは2つの点で、画期的でした。1つは、これほどたくさんの国々から詩人を招待した詩祭は今までなかった、2つめは、詩・短歌・俳句、日本の詩歌の3ジャンルが協力し合えた。そして、この2点が合わさって、日本で最大規模の詩祭になりました。ともかく実現できたことが、何よりの実りです。

J:西洋の国々では、ポエトリーという概念に日本の俳句と短歌も含めるけれども、日本国内ではちょっと違いますよね。今、新井さんが言ったように、ポエトリーは3つの領域に分かれていますね。

T:他のアジアの国々も含めてほとんどの地域で、定型詩を書く人も自由詩を書く人も、みんな「詩人」でしょう? それが、日本では、詩・短歌・俳句はそれぞれ独立してて、書く人もべつべつの名前で呼ばれ、普通、「詩人」とは、自由詩を書く人だけを指します。ジャンルを越えて、お互いが交流する機会も、じつを言うとすごく少ないのです。
でも、海外から来た人たちに「日本の詩人で尊敬する人がいますか?」と尋ねると、ほとんど「芭蕉!」と答える。国際社会の考え方では、詩人も歌人も俳人も、みんな「詩人」ですから、当然ですよね。

J:芭蕉ですか(笑)。たしかに、私の母国、アメリカでは、日本の文化的な成果として、俳句は、アニメや歌舞伎と肩を並べて一番よく知られているでしょう。

T:ええ。私は留学生に日本語を教える仕事もしているんですが、俳句に興味がある外国人というのは、最近、いっそう増えたように感じますよ。フェスティバルには、イタリア語で俳句を書いているトニ・ピッチーニさんもいらっしゃいました。
世界文学の視野から眺めると、日本語というのは、「Haiku」を代表に短詩型という領域を開拓した言語なんだなぁって、このイベントを通して実感しました。象徴詩をフランス語が、ビート詩をアメリカ英語が開拓したみたいに、日本語は短詩型、つまり、短さによって言葉の凝縮力を高める詩の発明で、世界詩歌に影響を与えているんだなぁ、って。

J:たしかに、西洋のモダニズムと前衛的な詩の歴史に、日本語の短詩型は大きな影響を及ぼしましたね。

T:日本の詩歌って、そういう特徴で見られているんだ、と私は初めて意識したわけです。これは、日本の3ジャンルが協力した上で、世界各地の詩人を招くという、このフェスティバルを経験しなければ、抱けなかった実感です。いろんな詩人と触れ合って、おしゃべりして、夜にはいっしょにお酒を飲んで…。
でも、私自身は、自由詩、というか「長い日本語」で詩を書いているんですよ(笑)。ただ、自由詩だって、短詩型の伝統を踏まえて成立したんですから、一行、一行が、俳句や短歌の影響を受けてる。そんな自覚も、このフェスティバルで持てました。

J:特に印象深い朗読がありましたか。

T:海外の詩人って、だいたいみんな発声がいいですね。体という空気の袋から、自然に、腹式呼吸でいい声が出てるって感じ。そうすると、意味もリズムも含めて言葉ぜんたいが、聞いてる人に無理なく伝わっていきます。お客さんも自然に耳を傾けたくなっていく…。それがまず、とっても羨ましかったです。
日本でも、年長の人はできてるけど、年代が下がると、呼吸法が窮屈になっちゃうみたい。窮屈だから、無理やり一生懸命やってるって感じになる…。「お腹の力」「体の力」を鍛えたいなって思いました。

J:ちなみに、YouTubeに、フェスティバルの朗読映像がアップされていますから、読者の皆さんの中で興味を持たれた方は、ぜひご覧ください。
新井さんたちは将来、また東京で、ポエトリー・フェスティバルを開く予定がありますか。

T:予定というか、またやりたいな、っていう話はしています。私も続けられるといいと思ってます。ただ、課題もあるので、できるとしたら3年後くらいではないかな。

J:私が初めて新井さんの詩を読んだのは、中保佐和子さんの編集した『Four From Japan』(Litmus Press/ Belladonna Books) という英日バイリンガル詩集でした。その詩集が出たとき、新井さんはじめ収録詩人たちはニューヨークで朗読しましたよね。その経験はどうでしたか。

T:楽しかったです、ホントに楽しかった! 朗読を聞いてるときの日本人って、私もそうですけど、何というかお行儀が良すぎて、聞くことが「お勉強」の一つみたいな雰囲気…。その穏やかさは美点でもあると思うけれど、アメリカのお客さんって、気に入った言葉にニッコリ笑ったり、声のリズムに合わせて体を揺らしたり、ともかく反応が大きい。言わば「コンサート」の雰囲気だった。その上、私たちのコメントを逐一速記する批評家、朗読してる姿をデッサンする画家までも…。詩人と聴衆がいっしょになって詩の空間を演出してる。それに驚いたし、とっても励まされました。

J:アメリカで何か薫陶を受けましたか。

T:私たちを招待してくれたのは、「ベラドンナ」という組織を作ってる、NYの女性詩人たちなんですが、ともかく、イベントを企画してくれた詩人、彼女たちを応援する詩人、やって来たお客さん…、みんなから、詩というジャンルそのものを盛り上げたいという意欲、ひしひし伝わってきて、心から素晴らしいと思いました。「ペン・サウンド」という声のアーカイブをネット上に立ち上げた詩人、チャールズ・バーンスタインさんも応援者の一人で、私たちの朗読も入ってます。
つまり、詩人は「書く人」だけじゃないんだ、と知りました。会を運営したり、対話したり、本の編集・出版をしたり、お客さんを集めたり、それらもみーんな、積極的な「詩人の仕事」なんだ、って気付きました(そういう発想、日本ではあんまりないと思います…)。どこかのイベントへ行って聴衆の一人になるのも、「詩人として、私はあなたに注目してますよ」っていう、意志の表現なんだな、って…。

J:なるほど、詩のコミュニティーを作ろうという刺激を受けたわけですね。

T:そうそう、「東京ポエトリー・フェスティバル」の実行委員を引き受けたのは、その影響もあるんです。アメリカで詩人の仕事の広げ方を知って、自分もがんばってみたい、って思えたんです。

J:新しい英訳詩集 『Soul Dance』(Mi’Te Press) の序文で、新井さんは、世界貿易センタービル跡地を訪ねて、作品のテーマに霊感を受けた、と書いていましたね。私は『Soul Dance』を訳していたとき、それについて尋ねたいと思っていました。

T:それは「9.11」の半年後、2002年春のことで、私にとって初めてのアメリカ旅行でした。ジャーナリズムに関心のある夫が行きたいというので、ほとんど付いていったにすぎないのですが、世界貿易センタービル跡地を訪ねました。巨大な瓦礫の山の中で、背の高いクレーンが折れた鉄骨を釣り上げていました。金属のぶつかり合う音が、重苦しく響いていました。広くなってしまった空がありました。そのとき、「アッ、うちと、オンナシダ」という思いが、浮かんで来たんです。

J:「うちと同じ」ですか。

T:はい。じつはその数年前、父の工場経営がうまく行かなくなって、実家の敷地のほとんどが競売にかけられました。パワーシャベルとかクレーンとかやって来て、建物と庭の、破壊と回収が一気に起こり、更地になりました。

J:お父さんは織物の工場を経営していらっしゃるんですね。

T:ええ。父の場合、それでも仕事の方は続けられているのですが、日本の繊維産業というのは、もうここ数十年、慢性的な不景気でして、私の故郷、桐生では、倒産や廃業で消えていく工場があとを絶ちません。
センタービル跡地とは、規模も崩壊の理由も違うのですが、そのときの、言葉にできない、何とも「異様なやりきれなさ」がNYで蘇りました。
その気持ちには、いろんな、いろんな意味があって、まだ自分を見つめきれていませんが、私にとっては、今の詩作の拠り所の一つになっています。

J:面白いですね。鮎川信夫などの戦争直後の詩人も、荒地や焼け跡に眼を向けました。彼らは第二次世界大戦を経験した世代だから、東京の焼け跡は、世界のアンバランスのシンボルになりました。けれども、新井さんの詩の中に出てくる、誰もいない群馬の工場跡などは、それと全く違う意味があるような気がします。どうでしょうか。

T:そうですね…。鮎川などが詩の根拠に「荒地」を置いているとしたら、私の場合は「更地」なんです。今の社会というのは、極端な破壊行為が起こった後、荒れ果てたその空間をじっと見つめる時間が許されていないんじゃないか…って思うんです。経済効率などのために、とても忙しく復興されるでしょう? その凄まじい「速度」から、じつは、生き残った人間だけじゃなくて、亡くなった生き物、壊された事物も、オイテキボリになってるんじゃないか…、取り残されているんじゃないか…。その辛さを一番痛感してるのは、生きてるニンゲンよりも、むしろそんなモノやオバケじゃないか、って思うことがあります。

J:新井さんの詩「月が昇ると」には、空っぽになった工場に、むかし働いていた人の手が残り、ダンスみたいに、覚えた仕事の身振りを続けているというシーンがありますよね。「Wheels」という詩でも、むかしの工員が幽霊のように蘇ってきて、現在の工場に取り憑きます。要するに、両方とも、過去が我々の現在に潜在的に存在している、今の我々にも影響を及ぼしている、ということですね。

T:ええ。オバケやモノがニンゲンに過去を教える力、それを信じているところが、私にはあります。何でもすぐに忘れてしまうでしょう?、ニンゲンって、すごくいい加減です。とくに今、社会や経済のシステムがぐんぐん先へ進んで、それに追いつこうとして、悲惨さに対してさえ健忘症になっている。自分自身への反省を込めてなのですが、心や記憶、夢さえもうまく重なっていかないんです。繋がらないまま、断片として散らばって、消えてしまう。
だから、教えてくれる存在として、オバケやモノにそばにいて欲しい、いつづけて欲しい、って…。

J:そう言えば、新井さんの詩には、現在の社会に対するコメントが多いですね。例えば、新井さんの傑作「朝をください」もそうじゃないかと思います。それについて一言、言っていただけますか。

T:桐生で私が感じた「異様なやりきれなさ」というのは、理由はそれぞれでしょうけど、今、多くの人に共通する普遍的な感情の一つかもしれないな、と思っています。
「朝をください」を書いたのは、イラク戦争が泥沼化し、インド洋沖の大津波が起きた直後でした。朝起きると、新聞やテレビで、毎日毎日、死者の数が報道されていました(皆さんも同じ経験をしたでしょう?)。悲惨や残酷が「数」に置き換えられてしまうことに皮肉を感じながらも、その膨大な数を抱え込む「朝」というものを描いてみたい、と思ったんです。
これも、オバケとニンゲンの間を書いた詩の一つですけど。

J:また、新井さんの詩の中には、言葉の音と遊んだり、普通の使い方以外の漢字を当てはめたりする、とても実験的な作品もあります。例えば、「アメノウズメ賛江」もそうですね。これは、「アメノウズメ」という神の名前を繰り返しながら、繰り返すごとに違う漢字を当てて、意味をずらしていく作品ですね。

T:内容的に詩を掘り下げていくことは何よりも大事だと思いますが、ときどき、そこから自由になりたくなります。言葉を斜めから見たり、モノとして扱ったりすることで、詩の可能性を広げるのも好きで。
例えば、サッカー選手が大人になっても「ボールと遊ぶ人」だとしたら、詩人は「言葉と遊ぶ人」ですよね? だったら、「一体、何やってんの?!」と、周りの人が心配するくらい激しく遊びたい、ってそういう願望もありまして。

J:新井さんは外国から来た大学生に日本語を教えていますよね。彼らが使う日本語が自分の詩作に影響を及ぼしていると、以前、新井さんは言っていましたね。

T:ええ。例えば、言葉と遊ぼうとするとき、留学生の眼差しは、とっても楽しいヒントをくれますよ。日本語ネイティブは、ほかの言語と比べて日本語にどんな特徴があるかなんてほとんど考えないけど、留学生は、日本語の面白い所や変な所をすぐ見つけるし、ネイティブには思い付かない間違いも大胆にする。そんなとき、「あッ、コレ使えないかな…」と、詩人としての私が着想をもらいます。

J:じゃあ、その詩が英訳されると、変な感じですか。

T:いやぁ、ぜんぜん。どんなふうに別の言語へ移動させるのか…、訳者の苦しみぶりを見るのは、詩人冥利です(笑)。何ていうか、言葉遊びの翻訳も含めて「困難な翻訳」って、訳者を獰猛に、動物的にさせるでしょう? 捕まえようとしてもカンタンには捕まえられない…、だからこそ、すッごく凶暴な握力で挑みかかっていく。

J:たしかに…。

T:留学生の日本語ってそれぞれ母語の名残りがあって、どんなに上手でも、英語訛り、中国語訛り…が混じる。でもじつは、それは言葉の音楽としてとってもチャーミングです。訛りに何とも魅力がある。そんなヒントもあって、私は、故郷の方言(上州弁)をベースにした詩をいくつか書いてます。その一つ、「Wheels」を訳してる時のジェフリーさんって怖かった。いえ、どんどん怖くなっていった(笑)。辞書にだってない単語、文法、聞いたことないアクセント…、そんな奇妙な言葉に挑んでいくうち、火が付いた、ジェフリーさんの英語に。私、英語、あんまりできないですけど、でも、言葉のオーラは感じられる。翻訳の「虎」がぐるぐる回って、アッ、爪を立ててる!、って…。
佐和子さんが「アメノウズメ賛江」を訳しているときも、やっぱりそんな力に驚いてました。

J:新井さんは、どんな詩人の作品を読んで影響を受けているんですか。

T:ライフワークとして探求してるのは、萩原朔太郎。高校生のころ特に耽溺して、ほとんど私のアイドルでしたし、もちろん、影響もたくさん受けてますから。彼は、日本語の口語自由詩を確立した近代詩人なんですけど、生まれが私と同じ群馬で、しかも、群馬が大ッ嫌いなんです。その屈折にかえって惹かれて、彼の詩、詩論、アフォリズム…、彼という存在じたいに、なぜ?って、よく考えます。たぶん私は、朔太郎を通して自分を問い直そうとしているのかもしれません。
それから、正しくは劇作家なんですけど、でも、その著作は、エネルギー溢れる長篇詩と言っても間違いない、唐十郎さんの戯曲に夢中になってます。彼のセリフは、まさしく魔的言語です。『Alternative Japanese Drama』(University of Hawaii Press)に、英訳が入っているようですよ。

J:へえー、そうなんですか。

T:ええ。ただ、私の「詩のはじまり」って言うのを考えると、じつは、小学生のときなんです。担任の津久井立男先生の影響で、詩を書くのが大好きになって、小学5年と6年の2年間で、ノート30冊以上も書きました。マザー・グースの詩に夢中になって、暗記するくらい繰り返し読みました。だから、私が決定的な影響を受けた最初の英詩は、マザー・グースですよ。

J:マザー・グースは、英語で読んだわけですか。

T:いえいえ、とんでもない。谷川俊太郎さんの翻訳で読みました。一篇一篇、堀内誠一さんのイラストが入ってて、ちょっとワルな感じがお気に入りでした。当時、5巻本が刊行中でしたから、新しい本がお店に並ぶのを持ち焦がれてました。
でも、よく考えると、ちょうどその頃、「ロンドン橋」とか「ポリー、やかんをかけて」とか、外国に住んだことのある知り合いのお姉さんに、英語で教えてもらったっけ…。それ、私が初めて覚えた英語の歌です。

J:新井さんはまだ若いけど、日本の優れた詩人、例えば阿部日奈子さんや平田俊子さんと親しく付き合っているようですね。特にお世話になった方などありましたか。そういう方と交流して何か学んだことがありますか。

T:子どものとき大好きだった詩作を、中学、高校、つまり思春期の私は、思いっ切りよく忘れてしまうんです。ようやく、大学も卒業する頃になって思い出すんですが、大学院1年のとき、講義で吉増剛造さんに出会いました。それから、第一詩集を出した後、今も続けている詩の雑誌『ミて』を創刊しましたが、メンバーの一人だった松井茂さんの紹介で、藤井貞和さん、音楽家の高橋悠治さんに出会いました。高橋さんのご縁で、三弦奏者の高田和子さんとも懇意になりました。

J:そうですか。それは幸運な出会いでしたね。

T:ええ。振り返れば、皆さんたいへん忙しかったはずなのに、温かく付き合ってくださったこと、とっても感謝しています。刺激もたくさんいただいたけど、一つあげるなら、選んだ道、つまり私の場合は詩を、続けるということ、その徹底した「執着心」かな。続けていれば、自然に問いが生まれてくる、その問いに向き合えば、必ず詩は変わる、そして詩人自身も…と。
詩人で翻訳家のぱくきょんみさん(米文学)、工藤正廣さん(露文学)との交流も、阿部日奈子さん、平田俊子さんとの出会いも、『ミて』がらみでした。今、この雑誌は、翻訳家のイナン・オネルさん(トルコ語詩)、前田君江さん(ペルシア語詩)、批評家の北野健治さん、樋口良澄さんと進めてますが、そういう意味で、詩を書くだけでなく編集人でもあることが、世界を広げてくれてます。まだまだ修行中の詩人に過ぎませんが、私は…。

J:じつは、最初に私に新井さんの詩を訳したら…と薦めてくれたのは、1980年代の日本の女性詩ブームの先駆者、伊藤比呂美さんでした。私は、そのときちょうど、伊藤比呂美さんの詩集の英訳が終わるところだったのです。「今度、誰を読めばいいかな?」と伊藤さんに聞いたら、「アラタカだよ!」と答えたんです。

T:エッ、それは嬉しい暴言です(笑)。ジェフリーさん、真に受けてくれて、アリガトウ!
じつは、伊藤さんとの縁も雑誌なんです。夫の方が伊藤さんと長い付き合いがあって、結婚してほどなく私を紹介すると言うんで、こっちは年来のファンですから、わくわくしながら会いに行きました。で、厚かましくも『ミて』を手渡して、そしたらその場で「面白いよ、この雑誌」っておっしゃって、間髪入れず、「伊藤さん、『ミて』に詩を書いてください!」ってダッシュしちゃった…。それこそ猪突猛進でした。
ご寄稿の作品は「事件」と言っていいほど大反響で、編集人として、私は自信をいただいたんです。小説の世界から詩の世界に、伊藤さんが戻られるきっかけの一つともなったそうです。

J:そして、ご自分の旅行やポエトリー・フェスティバルを通じて、何人かの外国の詩人とも親しくなったようですね。例えば、若いけど非常に面白いアメリカの詩人、レイチェル・ルヴィッツキーさんとの交流について一言…。

T:レイチェルさんは、NY在住で、私と同世代の詩人です。独特な作品を書き続けていますが、フェミニズム運動の活動家でもあって、さきほどちょっと紹介した組織、「ベラドンナ」の創立者です。ベラドンナは、国籍、人種、階級、年齢などに関わらず、前衛的な女性詩人の仕事を激励するために、もうすでに、120冊以上の本、100回以上のイベントをプロデュースしています。尋常でない活動ぶりでしょう? 世界規模で女性詩人のネットワークを作ろうとしている、と言ってもいいほどです。

J:たしかに、面白そうな組織ですね。

T:彼女のおかげで、私は大事な発想転換ができたと思ってます。それまで、詩人として外国へ出て行くためには、国内で高い評価を受け、賞などをもらった後、つまり、オリンピックみたいに「日本代表」にならなくては…、と無意識に思い込んでた。だから、チャンスはなかなか回ってこないだろうなぁ、って半ば諦めてました。
でも、ベラドンナは「面白い詩を書くこと、私たちと対話を続けること、それができるなら、私たちはあなたを応援する」と言う。で、本当に、NYで、日本の若手女性詩人4名のために、イベントと英訳詩集の出版をしてくれました。意外なことに、それはかなり好評でした。
つまり、競争で選ばれた詩人が「国」とか「国語」を代表する発想は止めにしよう、ということでもあると思うんです。もっと勝手に、自由に、アナーキーに繋がり合って、いろんな角度から「四次元のテリトリー」を作ろうよ、そこを詩の場所にしちゃおうよ…、そういうことでしょう。
「東京ポエトリー・フェスティバル」にレイチェルさんを呼びたくて、けっこうメールを綴りました、ブロークンな英語ですが…。でも、繋がり合いたい気力があれば、それでも何とかわかりあえるんですね。
作品の翻訳は、ジェフリーさんのような達人にお願いするしかないですが、でも、詩人どうしの付き合いは、たどたどしくても自分でがんばってみる。そんな中で、思いがけない出会いがやってきて、詩の内容も広がりや深みを持つんじゃないか、と信じています。