編集人:新井高子書評


「八重」という女―唐十郎戯曲『西陽荘』書評

 
 

新井高子

 東日本大震災からひと月たった四月半ば、余震も停電への備えもつづいている頃、詩人の管啓次郎さんと編集者の関戸祥子さんから、メールが届いた――蠟燭の炎のもとで朗読したい詩や文章を集めた本を作るので、作品を寄せませんか。震災がきっかけになって発案されたこのアンソロジーには、のちに、31人の詩人、小説家、翻訳家が寄稿するが、書名は『ろうそくの炎がささやく言葉』だと言う(勁草書房、2011年8月刊)。
 「紅いひなげしが咲いていました/浜辺に、/片方だけ、皮靴が打ち上げられておりました/縛ったままの靴ひもでした」と始まる、花と靴の小篇を私はここに書いたが(題名「片方の靴」)、じつは、そもそもの書き出しには、「螢のようにお腹を灯して飛べたなら…」、集まる螢火で幻燈会を始めようという口上風なくだりがあった。その虫は、本が読まれるときの蠟燭の炎から生まれればいいと想ったが、推敲しながら「要らないや、前置きは。いきなり幻燈の中身に飛んじゃった方がいい」と削った。だから、でき上がったものを読んだ人に、この詩が、もともとは幻燈であったことはほとんど伝わらないが、それでいいと思ったのだ。
 十一月のある日、ブックカフェでこれを朗読する機会があって、ハッとした。「蠟燭だったのか、これも」と…。すうっと細い茎のてっぺんに、ふんわり花を付けるひなげしは、店内を照らしている蠟の灯りとほとんど同じ姿だったから。螢の一節は取ってよかったんだ、とあらためて腑に落ちた。詩を書こうとして見ていた私の蠟燭の炎は、想像の中で、まず蒼い螢の光に宿り、しばらく闇を舞った後、紅色のもろい花びらへすっかり身替わりしていたのだった。そして、幻燈という枠組は消し去られても、螢の落とし子が詩のあちこちに潜んでいるのも自覚できた。詩作に限ったことではないが、後になってから、これはこういうわけだったか、と悟ることはままある。


『西陽荘』チラシ』

 が、この秋の「蠟燭の炎」は、ここで終わらなかった。
 唐十郎の戯曲、唐組2011年秋公演『西陽荘(にしびそう)』の劇中に、唐が演じる「狼次郎」が「俺は、狼の姿に転身したが、元は一人の文学青年だった。好きだったのは、ガストン・バシュラールの『蠟燭の焰(ほのお)』だ」と言い放つ場面がある。そのセリフが頭から離れなくなった。まだ手にしたことのないこの本を、読むべき星回りが来た気がし、絶版になっているそれを探した。
 澁澤孝輔訳の一刷は1966年とあるが、手に入ったのは1973年の四刷。けっこう版を重ねたんだなと思って、編集者の夫に尋ねると、当時かなり読まれた本だよ、と恥ずかしい。思えば、アンソロジーの書名自体、バシュラールを踏まえていたのだろうが、気付いていなかった。
 ページの文字をつたいながら、驚いたことの一つを、ごく端折って言うならば、「片方の靴」を書くにあたって私が辿った詩のプロセス、つまり、蠟燭の炎を見つめる、するとそれはある生き物に変化する、するとまたべつの何かに変わっていく、すると…という幻想の連鎖の細道を、この本は、より本質的な思索の言語によって、イメージの発生論として論じていた。もちろん、バシュラールは、想像力のいのちの根源として「蠟燭の焰」に注目し、それを具体と抽象の狭間の言葉で鮮やかにとらえた。つまり、具象的な、即物的な蠟燭に限ったことではなく、普遍性の高いイメージ論であり詩論であり哲学書だと言う方がいい。が、たまたま、火と向き合った作品を書いたばかりの私には、自分の手の内、胸の内を見透かされたように、異様にありありとしていた。まさしく読むべき星回りで出会った本。
 が、驚きもまた、ここで終わらなかった。
 唐組秋公演『西陽荘』に何度も足を運ぶうち、妙にこだわりたくなったのは、その戯曲の中心人物の一人、「八重」という女はいったい何者か、という疑問だった。それが「幻の女」でもあることは、ほどなく見てとれたが、それなら、どんな幻か。劇作家はどのように幻を作ったのか。
 どうやら、本作は、戯曲の主人公、元コピーライターで、即興詩人の才能もある「坂巻」に、作者・唐十郎が、バシュラールの「蠟燭の焰」のようなものを見つめさせることで巻き起こした「回想/妄想劇」であるような…。
 自分の詩作の時間を思い返しつつ、バシュラールを読み込んで、その論を踏まえながら坂巻の「物思い」(それを「詩」と読んでかまわないのだが…)を辿っていくなら、唐が仕組んだこの戯曲の構造、そして、巧妙に仕掛けた「女の謎」が何とか解けるかもしれない。劇を見ながら、私の頭にふと浮かんだ一つの「直観」を、ある程度筋道立って説明できるかもしれない。ガストン・バシュラール著『蠟燭の焰』のページをめくりながら、そんな手応えに、私はふつふつと興奮していた。


『悲劇喜劇』2012年2月号

 この戯曲は、幕前劇から始まる。黒い幕の前に、ぼろアパートの一部屋が簡単に設えられてある。そこに、主人公・坂巻は佇み、「西陽荘の二階には、一枚だけガラスのない窓があり、その部屋を風の忍び屋さん6号室と呼んでいた」と語りだす。割れて取り外したのだろうか、小さな窓ガラスはなくなっていて、確かに「風」が通う部屋。そして、十二月頃まで住んでいたそこには、「八重」も時折会いに来ていた、と彼は続ける。彼女と坂巻は体を触れ合ったことはなく、素性も知らず、つまり恋人でないことは、のちの劇中で明かされるが、彼女のために寝にくる布団は用意し、半ば、曖昧な同居人であったよう。が、ある日、その八重は、三十円しか積んでいない貯金通帳を坂巻に渡し、部屋から飛び出してしまう。通帳を返そうとしたが、追いつけない…。数日後、下駄箱に入っていたおでん屋のマッチを手掛かりに、坂巻は探しにいく。
 このプロローグ自体、いまは別のアパートに移っている坂巻が、当時を回想し、過去の部屋に自分を立たせることで成立している。つまり、実際は、語り手の坂巻は、べつの場所で腰掛けながら煙草でも吸っているかもしれず、セリフはそちらで発せられているようなのだが、演ずる役者は「風の忍び屋さん6号室」に立っている。セリフと舞台空間には微妙なズレ、捩じれがあるわけだ。尋常の劇作家なら、この幕前劇は、いまのアパート等での回想シーンになったろう。唐十郎にはあまりに自然に捩じれを描けてしまう筆力があるので、聞き逃してしまいそうになるが、どうやら幕前から「迷宮」は始まっている。
 回想にふける坂巻の実像は、一瞬たりとも舞台上には現れない。この芝居そのものが、いわば、彼の「頭の中」なのだ。作品全体が、坂巻を作者とする「幻燈」上映だと言っていいと思う。だから、どこに彼はいるのかと問われれば、あたかも映写機のようにテント後方の桟敷か、あるいは走馬燈の灯心のように舞台の縁の下に埋まっているのだろう。劇中、狼次郎が『蠟燭の焰』から引用して叫ぶ詩、「わたしは内部だ、焰の軸だ。/……/だからわたしはもういない。」(同書、52頁)は、次郎の口を借りながら、坂巻自身を述べてもいるだろう。
 黒幕が開くと、舞台は、坂巻の次の物思いの対象場所、おでん屋に切り替わる。その店は、西陽荘から二つ先の駅、京成小岩にあった。予想通り、八重はそこで働いているが、坂巻は、以前務めていた会社の上司たちと偶然出くわしながら(厳密に言えば、彼らとの遭遇を思い返しながら)、八重の導きによって、さらなる過去、忘れていた過去を回想し始める。

 バシュラールの『蠟燭の焰』に、こんな一節がある。「点っている燈明と夢想にふけっている魂とのあいだには、ひとつの類縁関係がある。どちらにとっても時間はのろい。(中略)その時、時間は深化し、イマージュと思い出とが結びつく。焰の夢想家は、彼が現に見ているものと、過去において見たものとを結合するのだ。彼は想像力と記憶との融合を知る」(20頁)、「夕べの夢想で、蠟燭を前にしながら、夢想家は過去をむさぼり、作りものの過去にふける。夢想家はありえたかもしれぬものを夢見る。(中略)彼が為すべきであったものを夢見る」(54頁)。
 これをこの劇に援用するなら、蠟燭の「焰」のかわりに、夜の「風」を、坂巻は見つめているようだ。彼と狼次郎の問答は、

坂巻 じゃ、何の怒りで、それ、燃やす
狼  蠟燭だ、その焰が、オレを前に突き進ませる(中略)。
   言い合いはやめにして、お前の焰を持ってこい
坂巻 それは〈夜風〉だ。めらつく代りにヒューと鳴る。
   そして、泣いているどこかの女の、辺りを巡る。

坂巻は、「風」を寄りどころにして、実際にあった「記憶」と勝手に描いていい「想像」を錯綜させながら、頭の中で、ありえたかもしれない過去を「妄想」する。その内容が、舞台で上演されていく。
 この戯曲には、坂巻の行く手をいつでも追い掛けることのできる密着的な人格、神出鬼没な地獄耳、「どうしてお前は一人で記憶を思い出せないのか」と歌い掛けるお化けなど、奇妙な存在が出てくるが、ここが「作りものの過去」であることで、自在さを裏付けられているようだ。回想とはつねに不正確で、そこにはみるみる幻想が取り込まれ、変形を重ねていくことは、「誤読の達人」とも評される唐十郎にとっては、バシュラール以前に、当然かつ信念でもあるだろうが。

 八重の導きでまず紐解かれる坂巻の記憶は、茨城県の大洗海岸近郊の村(舞台上は、おでん屋のままで、二人の対話によってそこは語られる)。乳製品加工業を営む会社「サフラン・ミルク」に坂巻が勤めていた頃、上司の森といっしょに回った牧場では、何十頭もの乳牛が放逐されようとしていた。その原乳を使うことができなくなってしまったからだ。乳腹を揺らしながら搾られることを待っている牛たちを見て、無惨さに胸を痛める坂巻。戯曲では理由は何も語られないが、観客が、福島の原発事故がもたらした放射能汚染とこの村を重ね合わせることを、唐は折り込み済みだろう。
 次に導かれる記憶は、酪農の村に近い海辺の町、涸沼町。が、二幕目となる舞台は、そこではなく、おでん屋から遠くない、坂巻たちが足で移動した路地裏に設定される。
 坂巻は酪農の村を回った折、涸沼町も徘徊し、そこで出会った漁師の青年、八重の弟でもある汐一とともにゴミの山をあさったことが思い起こされる。彼らが見つけようとしていた「宝」とは、汐一が乗っていた舟「飛沫丸」の残骸や部品の名残り。が、ある木戸の前で、夜回りしていた自警団に汐一は捕まり、勾留されてしまう。戸の反対側にいた坂巻は、要領よく難を逃れたのに…。つまり、男の記憶を引き出しつづける女の目的は、一人で罪を被った汐一のために、その晩の出来事を思い出させようとしていた…。彼女の誘導で、坂巻は、悔やんでいるからこそ封印していたトラウマの中に、立たされることになったわけだ。
 劇の終盤、涸沼町の夜回りたちが、もう一人いたはずの「犯人」を探しにやってくる。

影坂 ざっと見回して、その男はいませんか?
坂巻 ワタシです

 坂巻は自ら名乗りを上げる。夢想の中でもう一度生き直し、ありえたかもしれない自分を取り戻す瞬間だろう。と、ゴミの山から、望んでいた舟が現れ、坂巻と汐一はそれぞれの「宝」の部品を装着させ、屋台崩しの彼方へ去っていく。つまり、坂巻は、閉じこもっていた「回想/妄想」の外側へ、自分を出航させていく。
 ここで注目すべきなのは、二幕の舞台設定も、京成小岩からほど近い、東京下町の内側だったことだ。その横丁にはゴミの山があり、つまり、二幕は大量のゴミを背景に演じられる。唐は、観客が、この劇空間と東日本大震災による瓦礫の山を否応なく重ねることを、十二分に計算済みのようだ。だからこそ、乳牛の放逐と同様に、ゴミの山の存在理由は一切明かされない。舞台は東北近辺ではなく、その山も津波による瓦礫ではないのに、観客のほとんどがそう思い込んでしまう「錯覚」を、ハナから見込んだ設定なのだ。つまり、唐は、戯曲自体は、あくまで坂巻の「頭の中」を描き、震災と距離を置いた、自由な虚構空間を構築する一方で、客がハマるだろう「目の罠」も設えた。この戯曲は、じつに「したたかな迷宮」と言っていいだろう。未曾有の天災と人災に苛まれた「状況」と向き合いつつ、演劇だけの「虚構」空間を打ち立て、しかも、それを見る客の頭の中まで推測して巻き込んでしまう。必ず引き寄せるにちがいない「現実」を、描くのではなく、客の錯覚として当て込むことで、劇空間を巧妙に拡大させている。
 この芝居をさらりと見た観客は、おそらく二幕目は、津波被害のひどかった漁師町の芝居だと思って、テントを後にしたのでないか(じつは私も、最初はそうだった)。主人公と若い漁師が、夜回りや町の人たちに干渉されながらも、こだわっていた舟を瓦礫の山から掻き出し、巷という「海なき海」へ奮い立って出発したと捉え、その姿に何らかの勇気をもらったのではないだろうか。それは、客の「妄想」なのに…。もちろん、唐演劇は多様な解釈をできるのが特徴なのだから、それも一つの大事な見方だと思う。そして実際、劇の終盤、唐は、涸沼町の自警団をそこに入れ込むなど、錯覚に寄り添うように、この東京下町、すなわち坂巻の「頭の中」を錯乱させている。
 本作は、一見、社会劇風に見える。役者の演技の方向も、幻想性や内面性より、社会性、出来事性に比重が置かれているように感じられた(後述するA面、B面の区分けでいったら、A面が強かった)。想像を超える巨大災害を経験して、観客も役者も、感性がリアリズムの方に引っ張られやすくなっているのかもしれない。が、じつは、そんな状況も内包した上で、唐の迷宮劇、「回想/妄想」劇は展開されているのを見逃したくない。

 ここまでだけでもかなり込み入っているのに、これは坂巻を中心にした展開で、言うなれば、物思いの「内容」世界。仮にこれをA面とするならば、その裏にはB面が貼り付いている劇構造だ。B面には、八重を中心にしたその手繰り方、手繰らせ方、つまり、物思いの「方法」世界がある。男の記憶の糸をするする引き出す不思議な女、「八重」とは何者かを考えながら、B面を追ってみよう。
 八重が、おでん屋の暖簾をくぐった坂巻と再会する場面。じつは、「あんたにお客さんだよ」と店の主人が掛ける声を聞いて初めて、二人は目を合わせる。すぐには認め合わないのだ。ほんの数秒のことなのだが、微妙に初対面にも受けとれる空気感で二人は出会う。つまり、どうやら、この姿ではなかったようなのだ、「西陽荘」で八重は…。それが、さりげなく仄めかされている。「一つ部屋で、ゴハンも一緒に食べて」いるのに「体をさわったこともない」のは、おそらく、あの部屋では「女」の姿をしていなかったから…。
 この論の書き出しで私が述べた自作詩の執筆プロセス、炎を螢に、螢をひなげしに変形させたように、詩の好きな坂巻の「物思い」は、その前は「風」か、あるいはそれに関連する「何か」であった存在を、ここで「おでん屋店員」に切り替えたにちがいない…。「風の忍び屋さん6号室」では、文字通り、風か何かとして彼女は通っていた、と私は読んでいる。そして、妄想空間がおでん屋に移ったことによって、初めて「女」に化けたのだ。
 『蠟燭の焰』は次のように書く。「焰はなんらかの仕方において裸のままの動物性であり、一種の極端な動物である。(中略)焰はその時、ひとつの生きた実体」となる(87―88頁)。バシュラールならば、「蠟燭の焰」からしだいに転成してきた夢想の生き物が、この戯曲では、「風」から転じた「生きた実体」、かくも愉快なことに、前掛けに煮汁の染みをつけた、おでん屋女になったのではないか。坂巻は頭の中に、人間の姿になった「八重」を立たせ、動かすことで、「風」がらみの妄想を生き生きと展開させていくわけだろう。
 彼女の手繰らせ方が、また面白い。いまは定職に就いていないプータローの坂巻(唐は、プータロー(風太郎)とは「風の捨て子」だとからかっている)が、なけなしの所持金を、八重の残高三十円しかない貯金通帳に差し出すことで、さらなる「回想/妄想」へ男を誘なう。「三十円の先の空白で、(通帳は)お腹空かしていないかしら」と謎掛けした後、女はカーディガンを片袖だけ脱ぎ、男に向かって腕の白シャツをはためかす。

八重 この片方の袖に、ちょっと鼻を押しつけてくれませんか(中略)。
   何か、とろける香りはしないでしょうか(中略)
坂巻 ミルクです(中略)。それも、香りにサフランのエキスをそっと、かけてる(中略)。
   もう一度、嗅がしてもらえませんか
八重 じゃ、あと、三、四万のお金を、通帳に加えてくれませんか

 彼女の袖の懐かしい匂いは、玉手箱の煙のようにうっとりと記憶の扉を開けていく。CMの世界にうんざりした坂巻が、「サフラン・ミルク」の森に誘われてその商品開発部に入社したこと、森とともに前述の酪農の村を回ったこと…。忘れかけていた出来事をつぎつぎに彼に伝える。劇作家は、八重自身にこのやり口を「振り込まれサギ」と呼ばせているが、記憶の案内人であると同時に、「教えてもらいたければ、お金ちょうだい」のタカリ屋でもある(もっとも最終的には、せびったお金は、弟の汐一を通じてすべて返され、つまり、その授受は「夢の中の夢」でもあったよう…)。

八重 いろいろ行ったね、関東の上辺りを
坂巻 どうして、それを?
八重 もう一万入れりゃ、そのワケ話すわ(中略)
   (通帳にはさむ。加算された。)
八重 大洗は、あたしもバイトしに行ったことがあるから

本当にバイトで行っていたのかは怪しいが、彼女は坂巻のアパートはもちろん、勤務先にも出張先にも徘徊先にも出没する。つまり四六時中、付きまとっている。しかも、非常にさりげない形で…。劇中、町の人に、「お前は占い人か、マジナイ師なのかっ」と八重はなじられ、「記憶なら、自分で思い出せ、みぃんな、それやってんだ、違うか、皆、記憶って何なんだっ」と坂巻は責められるが、女は男の行いをすべてお見通し。ほとんど一心同体と言っていい。
 ここで、八重が、二重の意味で「幻の女」であることに注意が必要だろう。前述したように舞台そのものが、男の頭の中の「幻燈」と言っていいのだから、おでん屋の主人も店に来た会社員たちも、じつは「幻」。だから、そこに、店員という立場の「幻」で彼女は並ぶ。が、じつは、自分自身も含めたそんな「幻たち」を引き出す「幻」でもある。次元の違う、よりメタな「幻」と言えばいいだろうか。半分はおでん屋の女だが、半分は玉手箱の煙でもあるような…。そのうえ、彼女は、風などから転成した末に、今のなりわいをしている。「八重」という多重性を表すこの名前には、そんな役回りが込められているのだろう。劇の終盤では、男の良心を突ついて疼かせることで、彼の閉じこもった心を開かせもする。まさしく、坂巻のアニマでもある。
 唐のこれまでの戯曲を振り返っても、複雑な役の一つではないだろうか。坂巻の「頭の中」の一人として、幻影たちの一人として、おでん屋女中の姿で舞台に現れるけれども、本当は彼らの横に並んでいない。いるのだが、いない。その存在力は別のレベルにもある。この「幻燈」を映している男、映写師・坂巻を想定するならば、八重は、その耳もとで、囁き声を発しながら次の場面を導いているのかもしれない…。何重にも謎を纏った女。

 じつは小鳥なんじゃないか、八重は。もちろん「風」でもいいのだが、その移し身として、空中を風のように羽ばたく小動物を置くと、その奇妙なふるまい、彼女を巡る謎がほろほろ解どけていく気がする。坂巻は、「風」と「女」の間に、一羽の「鳥」を潜ませたのではなかったか。
 彼女は、「風の忍び屋さん6号室」の小さな窓から自由に行き来し、時には坂巻が追いつけないほど速く移動する。行く先々のどこへでも尾行し、神出鬼没で、しかも邪魔をしない。唐の初期代表作『ジョン・シルバー』では、肩に止まるオウムが出てくるが、八重も時には肩に止まって、囀りながら夢想の道を教えているのではないか。その鳴き声を、坂巻が人の言葉に聞き替えているのだろう。
 酪農の村の匂いが染み込んだシャツ袖とは、羽に牛乳が撥ねたからではないか。醤油好きの坂巻が米のご飯でなく、わざわざパンを食べるのは、その屑を八重にやりたいからではないか。寝にくる布団を用意していたとは、窓辺に巣箱でも置いていたのだろう。ある日、たまたま、おそらくは落とし物だった一冊の貯金通帳を、その小さな嘴がはさんで運び、坂巻は、三十円という残高を見つめながら苦笑する。その苦みが、いつのまにか恥ずかしい過去を、悔やまれる過去を、夢想といっしょに引きずり出したのではないか。「サギ(詐欺)」も、鳥の一つですから。サギとプータロー。
 もしかしたら、「風」よりも「鳥」が先にあったのかもしれない。いや、「鳥」を、「風」と呼んだのかもしれない、この劇作家は。唐は、迷宮をつくるために、わざわざ核心を伏せることがある。バシュラールも、カモフラージュだったのかもしれない…。
 西陽しか射さないおんぼろアパートの小さな一室に、かつて言葉の仕事をしていた風采の上がらない男と、それによくなついた小鳥がいた。その出入りのために、男は窓ガラスを一枚外してしまい、冷たい風が吹き込んでくる。手乗りの鳥なんだろう。その目を覗き込もうと、男はうずくまっている。話し相手は、それだけ。『西陽荘』のそもそもの始まりは、こんな光景ではないだろうか。人の言葉を話さない鳥と男の対話、いえ、小鳥を相手に繰りかえされる孤独な男の自問自答。そんな後ろ姿が、戯曲の奥の本当の風景ではないだろうか。「女」に見立てたかったのだ、かき抱くことのできないセンチメンタルな生き物を…。八重がカーディガンを片袖ぬいでシャツをひらめかす、あの印象的なシーン。それは、美しい白い翼が垣間見える瞬間ではなかったか。
 しかし、八重の実体が小鳥であるなどとは、戯曲には書かれていない。「アラタカさん、それは、あなたの想像でしょう? 坂巻と妄想合戦してるんじゃないですか」と冷やかされたら、おどおど頭を垂れるしかない。が、唐十郎の戯曲、特に近年は、行間を大胆に投げ出し、詩のように書く。それを読み込んで論じようと思ったら、はっきり書かれたことを追うだけでは不十分なのも事実だ。これだけ錯綜した劇をつくるのに、必要最少限の言葉しか使わない。それでも書けてしまえる非凡さをあらためて実感しつつ、せめてト書きは、もう少し書き込んだ方が良いのではないかと思う。
 ただ、行間という空白に、果敢な妄想で噛み付くことを、戯曲が欲しがっているような気もする。観客にも役者にも。まるでお腹をすかせた「三十円の通帳」のように…。言葉数を抑えたことによって生じる「掻き立て」が、リアリズムに陥りがちな状況に対する唐の投石、アジテーションにも思えて。
 テントに座って舞台を見つめながら、「それは、小鳥…?」と私は直観したが、読者はどう思うだろう。唐十郎という迷宮の迷い方は複数あるだろうから…。
 が、こんな不思議な劇中歌に、ほかの論者は、どんな解釈を付けられるんだろうか!

〽メモリー、どこへ行ったの、思い出さん
 一人じゃ、あんたダメなのかい
 ジィッーと、静かにうずくまり  
 包茎、残尿、恥かしくって、  
 鳥の声で鳴くのかい
 ホーホケキョ

(『ミて』117号初出改稿)

* 唐十郎『西陽荘』、雑誌『悲劇喜劇』2012年2月号掲載、早川書房 
  詳しくは、こちら
* ガストン・バシュラール著、澁澤孝輔訳『蠟燭の焰』、現代思潮社、1966年
* 唐組秋公演『西陽荘』(作・演出 唐十郎)
  2011年10月1日—30日
  於・井の頭恩賜公園、雑司ヶ谷鬼子母神
  〈配役〉 
  坂巻(稲荷卓央)、八重(藤井由紀)、狼次郎(唐十郎)、氷雨(安保由夫)、森(久保井研)、月村(赤松由美)、汐一(気田睦)、花屋の店長(辻孝彦)、おでん屋の主人(岡田悟一)、ほか唐組役者陣