編集人:新井高子Webエッセイ


2月のエッセイ


  • 翻訳詩と出会って―日本女性詩人バイリンガル朗読会― (2017年9月15日、於・キャンベラ大学(豪国))

アニータ・パテル(菊地利奈訳)

Poet to Poet :
Contemporary Women Poets
From Japan

アニータ・パテル

司会・菊地利奈

 肌寒い春の夜、日本語詩人とその翻訳者とによるバイリンガル朗読会のために、百名近くの人びとがキャンベラ大学に集まった。新井高子とジェン・クロフォード、山崎佳代子とサバシュ・ジャイレス、川口晴美とメリンダ・スミス、伊藤比呂美とジェフリー・アングルスの4組による朗読会。

 キャンベラで開催されたポエトリー・オン・ザ・ムーブ・フェスティバルの一環として開催されたこの朗読会が最高だったのは、英語と日本語の両方で朗読されたからというだけでなく、詩人本人と、同じく詩人である訳者本人とによって朗読されたからだ。このイベントの企画者で、現代日本女性詩のアンソロジー『Poet to Poet: Contemporary Women Poets from Japan』をクロフォードと共編した菊地利奈は「<日本女性>が従順で受け身だというステレオタイプのイメージを壊」すような女性詩人を選んだという。この朗読会で、そのもくろみは見事に成功した。


朗読した日本の詩人、4人


新井とクロフォード

 各詩人のスタイルはまったく異なっていた。新井高子はおしゃれな黒のドレスに身を包んだ小柄なエレガントな風貌で舞台に登場した。しかし、上品で控えめな外見は聴衆を見事に裏切った。新井の朗読はドラマティックで、情熱と精気にあふれ、非常に印象深い。「Dollogy (「おーしらさま考」)」はいつまでも余韻が残る。クロフォードの翻訳はすぐれたものだが、その英訳が朗読される前、つまり新井の日本語詩の朗読を聞いただけの段階で、新井の詩がなにを語っているのか直観的レベルで理解できた。ウェストがキュッとしまった、何重もの絹でまるまるとした人形のイメージは、シュールで不気味だが、「Of course. Girl-dolls are the mummies of silk worms. / Of course. Girl-dolls are the mummies of young girls (おーしらさまは、木乃伊でおらっしゃるがあ、お蚕の、/おーしらさまは、木乃伊でおらっしゃるがぁ、娘ッコの) 」という詩行には真理がある。

 新井は、日本の伝統的な詩歌で使われるイメージをくつがえしもする。花、蚕、山、月が禅の静穏なイメージから引きはがされ、「... Blossoms, the more blossoms from / within your mountain gorge ... give me red ones / because I’ll dye them, because I can’t stop. Of course it stinks when you lift / these layers. That’s / the moon. (新しい花ッコ、山陰がら何本も、何本も。... 着しでけろ、お蚕の肌コぉ。赤いの、けらい。染みっぢまァもの、止まンにゃァもの。裾めぐりゃァ、臭うべや。月だよ、そりゃァ)」と、真逆のイメージとして使っている。

 詩「電球」では、新井とクロフォードの朗読に調和が生まれていた。ふたりの声は流れるようなリズムにのって踊った。新井は生まれながらの役者だ。細心の注意が払われた適確な呼吸は、この詩に描かれるふたりの登場人物をはっきりと浮かび上がらせる。クロフォードの朗読は新井より規則的だが、ふたりの声が交わり「... I grab the neck, / pull at it, grab her breast ― / it’s not there / her breast. (おらは夢中で襟ヒッつかみ、開かす片胸、ざぐらッと。/ごせぇませんのした、/乳房は)」という、衝撃的な瞬間を生み出す。新井の痛ましいあえぎは、クロフォードの柔らかなため息と重なっていく。ピークは最終行の「Turn it on. (電球、点けろ)」だ。激しい最高のフィニッシュに間髪入れず、聴衆からの大喝采が鳴り響いた。



山崎とジャイレス

 次の朗読は山崎佳代子。山崎は、刺繍入りのスカートに華やかな真赤な靴を履いた、優美な女性。声は静かだが、表現力に満ちている。山崎と訳者のサバシュ・ジャイレスは最初に「The Hour -glass (砂時計)」を朗読した。「砂時計」の「soft like so (さらさらと)」というやさしい繰り返しは、「meanwhile in the surgery the air / is edgy... (その瞬間に 診療室は緊張する)」という詩行にあらわれる、手術を施す医者の手と手術室の恐ろしい現実と並べられ、鮮やかな対照を生んでいる。

soft like so it falls we are but sand / grains as light or heavy coloured /
pale red of a pigeon’s scrawny leg
(さらさらと落ちてゆく、私たちは砂だ/形状、重量ともに均質 色はどれも鳩の/
 かぼそい足の 薄紅色だ)

 「砂時計」が持つ深遠なイメージは、次に朗読された「木」における心が裂けるような残酷な語りとコントラストを描く。山崎の低い声は、「blood stained clouds and a raven lost in flight (血のまじる雲間を旋回する鳥)」だけがいる、戦争で跡形もなくなった無残な土地にそびえる木が語る、恐ろしい物語を紡ぐ。鶏の屠殺者が女こどもの虐殺者に変わるとき、私たち聞き手は、恐怖で口もきけなくなる。

 山崎はもっとも残忍でおぞましい戦争の現実を語ることにひるまない。

... the man now dressed as a soldier, his hands on his hips
will roar a shameless laugh ... and will drink and drink as my stump
will be drenched in the blood of the dead
(男は腹を抱え笑い声をたて... /女たちの体を鍋に投げ入れ/
酒を食らうばかりだ/私の切り株は血に染まるだろう)

 ジャイレスの朗読の重苦しいまでの厳粛さが、山崎の繊細な音色とバランスよく響く。

 山崎はセルビアで暮らす日本の詩人で、流ちょうなセルビア語で三篇目の詩を朗読してくれたことに感激した。ささやくような声。このセルビア語詩は、最後の詩「Coming Home for a Brief Visit (一時帰国)」の最終行「I gaze / at the face / of my motherland / mine and yet / nevermore / mine. (私は見つめる/私のものでありながら/もはや私のもの/ではない/母の国/の表情を)」が発せられた時、大きな意味を持ってせまってきた。ディアスポラのようにして生きている人間はみな、この完璧な真実に深く共感しただろう。



川口とスミス

 三人目の詩人は、「G’day mate (オーストラリア男性のスラング的挨拶)」とオーストラリア・アクセントを真似て登場した川口晴美。川口は、透けてみえるように細く、栄養失調であるのではないかと心配になるほど。最初の詩「Artificial (人造)」を朗読する彼女の声は表現力豊かだが静かで安定している。詩は言語と喪失感の間を流動的に動き、それは詩人の声と翻訳者の声の間を行き来する動きへと重なり、涙をさそう。川口の詩は物語で、読み進むにつれ次章が明らかになる。「人造」は、遊園地、人々の歓声、スワンボートが浮かぶ楽しそうな湖のシーンが、こどもの喪失という対照的なイベントと並列して描かれる。母親の「Don’t let go of my hand ... Keep holding on like that OK?(手を離さないでいて... そうしていてね)」という日常会話に「She was supposed to keep holding on like that / but before I know it, my daughter has disappeared(そうしていたはずなのに/いつのまにか娘はいなくなった)」という身が凍るような詩行が続く。物語は、川口とスミスのふたりの詩人によって巧妙に組み立てられていく。次の段階へと進むところには間があり、聞き手はこの夢のような物語の次のシーンではなにが起こるのか、とサスペンスに息を殺して待つ。ほんとうに娘はいたのだろうか。娘の喪失そのものが、湖同様「人造」だったのだろうか。確信が持てることは何もない。日本の偉大な作家である芥川龍之介がしたように、客観的真実とはなにかについて、川口も私たちに問いかける。「She isn’t anywhere / It may be she was never here to begin with / My daughter, never anywhere ...(最初からいなかったのかもしれない/わたしの娘はどこにも)」という詩行に私たちは恐れおののく。現実と幻想の境界が曖昧になるが、この詩には、人間がおかれた状況についてはっきりとした理解がある。

Things that have been lost and things that are not there, / things I can’t recall and things I can’t forget, melted and mixed, into / the skin of the water ...
(失われたものもないものも/思い出せないものも忘れられないものもとけて混ざった水の肌...)

 川口は、人間関係に生じる喪失と恐怖、絶望と希望についての、普遍的な心の動きを深く理解している詩人なのだ。

 川口が稀なる才能の持ち主だと気づいたのは、このふたりが二篇目「Welcome Home (おかえり)」を朗読したときだ。川口の顔つきや物腰は、まるで別人が舞台に舞い降りたかのように一転した。川口は、ひょうきんなアニメの声優のような声で、ものすごいスピードでよみすすむ。語りは軽く、明るく、突拍子ない。詩中の妻は(実は自分の誕生日ではない日に)誕生日のプレゼントだと水槽をもらい、その水槽の中に住むことになる。水槽から、夫がビールを飲みながら「at the aquarium with the / same face he used to watch the TV with. Nothing in his head(笑って...テレビを見ていたときとおなじ顔でぼんやり)」水槽を見ている様子を眺める。川口とスミスのふたりは陽気で快活にこの奇想天外なシナリオをよみすすめるが、この詩には結婚生活における厳しい現実が描かれていることも決して見失わない朗読だった。たとえば、「I’m home goodnight welcome home I’m home welcome home goodnight / welcome home welcome home.(ただいまおやすみなさいオカエリただいまおかえりオヤスミナサイおかえりおかえり)」という詩行など、繰り返し繰り返しあらわれる空虚な夫婦関係。詩は可愛らしい「Happy Birthday (誕生日おめでとう)」のセリフで始まり終わり、聴衆はみな漫画のようなシーンに笑いながら、不穏なものをも感じとる。

I am full of nothing / When I get broken this time he’ll be on his own, perhaps he’ll /
need a trolley, for the day he’ll have to take me / to the large waste drop off.
(わたしのなかにはなにもない/
 壊れたら こんどは一人だから台車がいるだろういつか粗大ゴミ置き場まで行く男)

 川口はどちらの詩でも、楽しそうに見える世界の下にまったく別のものが潜んでいるということを、語りを通して示してくれた。



伊藤とアングルス

 朗読会は、会場全体が釘付けになった忘れがたい詩人ペアの朗読で幕を閉じた。伊藤比呂美とジェフリー・アングルスはほんとうに最高だった。伊藤にはカリスマがあり、陽気で愉快でファンキー。伊藤とアングルスのふたりは、舞台の上で科学反応をおこし、私たちを完全に魅了した。詩「Coyote(英訳の正式なタイトルは ‘I am Chito’「わたしはチトーでした」)」は伊藤自身のアメリカの野生動物への執着、強いてはアメリカという国そのものに対する想いについての語りだ。アングルスのアメリカ訛りが伊藤の日本語の音節にからまり溶け合う。ふたりともアドリブが多い。にもかかわらず、対話は申し分なく構成されていて、ふたりのコミカルなタイミングの取り方は完璧だ。朗読会の後で、アングルスも「まるでジャズのように楽しいんだ」と話していた。

 伊藤がアングルスにコヨーテの鳴きまねをするように合図すると、アングルスは一瞬ひるんだ後、従う。伊藤のこども時代に読んだ野生動物の本(シートン動物記)について「too cruel(残酷すぎる)」が繰り返され、会場が笑いに沸く。伊藤が発する日本語のひとつひとつが理解できるのは、伊藤のダイナミックな声の表現力と舞台上の動きがあるからなのはもちろんだが、アングルスの存在も絶対に欠かせないものだ。アングルスは、伊藤の朗読を完璧なまでに引き立てる。彼の軽く乾いたアメリカ英語が、伊藤の詩の力強さとおもしろさを際立たせる。

 最後の詩は「Killing Kanoko (カノコ殺し)」という、産後鬱と嬰児殺しと堕胎についての詩だった。これらはそう簡単に公で話せることではない。伊藤の言葉遣いは残虐で恐ろしくぞっとする。不快感で身が縮む。居心地が悪くなるのは、この詩がグロテスクで、写実的で、熱狂的で、信じがたいほどまでにあけすけだからだ。このような詩を書き人前で朗読することには、真の勇気がいる。

Kanoko forces me to deal with all her shit / I want to get rid of Kanoko / I want to get rid of filthy little Kanoko / I want to get rid of or kill Kanoko who bites off my nipples.
(カノコはわたしにすべてのカノコの糞のしまつを強要しました/カノコを捨てたい/汚いカノコを捨てたい/乳首を噛み切るカノコを捨てるか殺すかしたい)

 狂気じみて繰り返されるこれらの詩行は、アングルスの男の声が女の感情をよみあげていることで、さらなる動揺をうむ。ふたりの詩人は互いの声を飲み込み合い、どこでひとりの朗読が終わり、もうひとりの朗読が始まっているのか、境界線がもはやわからない。

I want to get rid of or kill Kanoko / Before she spills my blood ... /
Congratulations on your destruction / Congratulations on your destruction.
(カノコが私の血を流すまえに/捨てるか殺すかしたい... /
滅ぼしておめでとうございます/滅ぼしておめでとうございます)

 アングルスが「My own self is dearer to me(自分の方がかわいい)」と読みあげたとき、伊藤には無表情の面がかかっていた。

フィナーレ、詩人と訳者がそろって


 四人の詩人たちはそれぞれにすぐれ、<日本女性>のステレオタイプを粉々に破壊していった。彼女たちの詩は、私たちを仰天させるほど驚きに満ちていて、新鮮で、挑戦的にもかかわらず、日本の伝説、歴史、引き継がれてきた図像学的イメージから切り離されてもいないものだった。日本語と英語の朗読を通して、私たちはみな、生涯忘れられない、笑いと悲しみ、恐怖とやさしさ、そして喜びの旅をした。ぬきんでた力量の四人の詩人と、彼女たちのすぐれた翻訳者詩人たちによる、すばらしい朗読パフォーマンス。歴史に残る夜だった。

(初出:『ミて』141号)


(註)アニータ・パテル氏は、キャンベラ在住の詩人・作家・フェミニズム批評家。詩「女の話」でキャンベラのACT Writers Centre Poetry Prize を受賞(2004年)。英語原文(写真付き)は、下のサイトを参照のこと。
https://not-very-quiet.com/2017/10/11/found-in-translation

Poetry Festival photos courtesy of International Poetry Studies Institute, University of Canberra copyright 2017