編集人:新井高子Webエッセイ


1月のエッセイ

  • 柿のおしえ

新井高子


柿の滝

「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」、正岡子規のこの俳句があまりに有名だからでしょうか。日本語の自由詩では、林檎や桃に比べ、柿は、詩語として思いのほか使われていないように感じます。イタリアを旅行中、市場で「kaki」という響きのまま、この果物がやりとりされているのを聞いて驚いたことがありましたが、甘柿というのは、かなり日本的なものらしい。たとえば「津波=tsunami」と同じように、「kaki」というコトバも、どうやら日本発の、新しい国際語になっていく気配なのですが、それが抱える生活感やジャポニズムを、詩人たちは、これまでかえって扱いにくいと感じてきたのかもしれません‥。自由詩というのは、やはりどこかで、西洋趣味と重なってますから。じつは、柿好きな私も、その詩をたぶん書いていないと思います。

子どもの頃、庭に何本か柿の木がありました。とりわけ、家業の織物工場の裏にある、背の高い百目柿の実を、工場の屋根に登って、その場で捥いで喰らう美味は、これから先、どんな果物に出会おうとも、たぶん超えることがないだろうと思うほどでした。真ッ青な空の下で、たわわな樹木から、あの色鮮やかな実を捥げば、枝がザワザワたわみます。そこでカリッと丸かじりし、甘みの粒立ちをシャキシャキ嚼みくだしていくとき、澄んだ空と、柿の巨木と、食べる私のお腹のふくらみは、まるでひと繋がり。ひかり輝いたのは、幼い瞳というより、秋ぜんたいの細胞のひとカケラじゃなかったか、と思う。
高校を卒業してすぐ上京したので、ふるさとの桐生にいた時間より、こちらでの暮らしの方がもう長くなってしまったのですが、いまだに八百屋やスーパーでパック詰めになった柿を、すすんで食べたいとは思えない‥。私にとって、柿とは、どうしても枝を揺らして取るものなので‥。


シッポに残した皮

とはいうものの、コレなしでもいられなくて、ここ数年ハマッているのは、干し柿づくり。産地からとり寄せたり、柿の木のあるご近所さんに分けていただいたりして、アパートのベランダに渋柿を吊るしている。
作り方はいたってカンタン。シッポだけチョコッと皮を残して剝き、ヘタのところに紐を結んで、2週間くらい待てば、でき上がり。ひとまず食べられるようになる。初冬の乾いた風に撫でられて、陽色の丸いモビールが、そよそよ窓辺でふるえている姿は、ちょっとしたエコ・アートですよ。吊り方をアレンジすると、かなりコンテンポラリーにもなるでしょう。


ヘタのところ

口に含めば、じ、つ、に、生き生きしたおいしさ。ようやく布団から這いだしてきた寝起きに、ベランダへ出て、ちょきんと紐にハサミを入れる。そして、アールグレーティーを飲みながら干し柿を食べるのが、冬の日課になっているのですが、ほんの一口で、アタマのピントがみるみる絞られていく。甘みには麻薬的な快楽とか覚醒作用がたしかにあるけれど、どうもそれだけじゃないようです。市販の干し柿とは比べようもない、不思議な「鮮度」があるんです。あぁ、食べ物って、ホントは旨味がぐるぐる動いてるんだな、と実感する。工場の屋根の上とはまた別のかたちで‥。

それは、太陽の光を浴びて、日々、果肉の質を変えていくでしょう? 渋みの粒子が、くるりと、甘みに裏返っていくでしょう? そんなプロセスの「真ッ最中」であることが、とっても大事のよう。つまり、変化の過程でパクッとやってしまうので、舌に、喉ごしに、変わろうとする果実の躍動感が伝わってくるんです。ダイナミックな滋養なんですネ、干し柿とは、じつに。


青空をバックに

渋みがようやく抜けた「若い」干し柿は、あっさりした甘さの背中に、まだ青臭さを宿してる。それがしばらくすると、プルつるるん。極上のジェリーのようで、しかも、生きたソレなのです。それから、水気がだんだん飛んで、甘みがいっそう深くなって、濃くなって、外気にさらした肌が皺をきざむ頃には、繊維と旨味がしっかり組み合い、果「肉」とはこういうものだよ‥と、食する者に諭してくれる。その日、その日がちがう風味で、ちがう新鮮さ。
ふーむ、奥が深いんだな、「新しさ」って‥と、干し柿にしみじみ教わる毎日なのです。「とりたて」にかなうものはないと思っていたけれど、加工というテクネ、光にさらすという知恵は、どうしてどうして、大したものだ。創りだしてしまうんですネ、べつの角度から、鮮度の力という現象を、つぎつぎに。


ちょっとアート気分

3冊目の詩集に向かって詩を書こうとしているので、こういうことって、コトバでも応用できないかな、とつい思ってしまいます。ベランダでそよいでいる、果実のモビールたちを眺めながら、頬張りながら、似た切り口があるといいな、詩のコトバにも‥、と。詩作をはじめたばかりの頃は、とにかく書くというだけで、自然な変化のプロセスだったけれど、その先へ行かなければ‥。その先を、どうやって仕立てていくか。挑戦のプロセスをどうやって仕掛けようか。

子規が鳴らした柿の「鐘」って、法隆寺の音をパクリつつ、じつのところは、アタマの中の自問自答の響き合いだったんじゃないかしら‥、なんて、勝手な余韻をたどっております。