編集人:新井高子Webエッセイ


3月のエッセイ


東京ポエトリー・フェスティバル2008にて
(撮影:竹浪明)

2008年秋に、NYブルックリン在住の詩人、レイチェル・ルヴィッツキー(Rachel Levitsky)さんが、「東京ポエトリー・フェスティバル2008」(10月31日-11月2日)の招聘によって来日しました。精力的な詩作を続けるルヴィッツキーさんは、最新詩集『Neighbor』(Ugly Duckling Press)を、昨年、出版したばかりです。
彼女は、現代アメリカ詩壇におけるフェミニズム運動の活動家としても知られ、特に1999年に設立した組織「ベラドンナ*」は、実験的詩人の詩集出版、朗読会の企画等を積極的に行い、アメリカ国内・国外を問わず、女性詩人の活動を幅広く支えています。2006年に、NYで開催された「現代日本女性詩人の祭典」の主催者でもあります。


Neighbor

2008年の来日時には、「東京ポエトリー・フェスティバル」の出演のほか、天童大人プロデュース「詩人の聲」でも、日英バイリンガル小詩集『Interval/あわいとは』(詩:ルヴィッツキー、訳:ぱくきょんみ、発行:近畿大学四谷アートステュディウム)の頒布とともに、詩朗読とスピーチの夕べが催されました(10月30日)。今回のWebエッセイは、そのスピーチのために、彼女が書き下ろした原稿を、日本語訳でお届けします。原文は、英語ページをご覧ください。
なお、雑誌『現代詩手帖』2009年2月号(思潮社)には、彼女の思想と詩について新井が解説したエッセイ「ルヴィッツキーとベラドンナ――地球サイズの地母神か」が掲載されています。(新井高子)

* 東京ポエトリー・フェスティバルでの詩朗読は、ユーチューブで聴けます。
URLhttp://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=NotvFNQDq8A

【アメリカ・フェミニスト前衛詩人の詩学:序章】

  • 高い場所: それ以上ない高い場所
    私の前衛フェミニスト活動
    あるいは、生産としての芸術、芸術としての生産

2008年8月28日
レイチェル・ルヴィッツキー

ドイツにおけるこれまでの10年間が示した通りの事実、すなわち、執筆と出版を担うブルジョワ組織が、驚くほどの数の革命的テーマを自らに同化し、そして、実際、それらを広めてしまっているという事実に、私たちは直面している。ブルジョワ階級という存在、それを担っている階級の存在が、真剣に疑問視されることなしに。

ヴァルター・ベンヤミン『生産者としての著者』、1934年


スピーチ後のパーティにて

ついに訪れた東京、そしてこの会に私を導いてくれた新井高子、ぱくきょんみ、水無田気流、関口涼子、中保佐和子との喜ばしくも豊かな関係について、まずお話ししたいと思います。その関係とは、それ自体が芸術作品であるような、詩的実践の楽しい成果です。芸術作品が創られる基になる、主義や主張と全く同じではありませんが、それらと不可分です。「ベラドンナ*」という組織の、とりとめのない活動を通して、「ジャパン・ベラドンナ*」を構築するために、日系アメリカ人詩人であり翻訳家でもある中保佐和子に、私は声を掛けました。そして、2006年11月、佐和子と私とポエッツハウスのステファン・モティカは、ともに仕事をしました。この仕事は、佐和子が加わったことで、たいへん広がりを持ち、精力的で、多元的で、冗談めかして形容するなら、発展への野望を持つものになりました。


Four From Japan

2名の詩人を招いて会を行うのが普通でしたが、翻訳を必要とする4名の女性を招待することになり、一日だけのイベントが普通のところが、3日連続のイベント(「現代日本女性詩人の祭典」)となり、小冊子だけが普通のところが、完璧に製本され、岡崎乾二郎の絵をカバーにした美装本(『Four From Japan』)の出版となりました。ジャパン・ベラドンナ*のイベント制作は、佐和子が加わる前のベラドンナ*組織では決して思い付かない、思い付くことができない構想に従いました。とても良いイベントになるとは思っていたましたが、実現するまで想像できませんでした。それは、偶然性や冒険性に満ちた、素晴らしくも思い掛けない会だったのです。私たちができると想像したこと以上だったのです。ですので、東京に私が来る前に、中保佐和子、新井高子、ぱくきょんみ、水無田気流、関口涼子のニューヨーク訪問があったことをお伝えします。詩人たちによる世界規模の交流に、ちょっと乾杯したいです。

では、話をアメリカに移しましょう。
私がこの原稿を書いているのは、2008年8月28日の朝です。バラク・オバマがアメリカ民主党から、初めての黒人アフリカ系アメリカ人大統領候補として選ばれました。私自身が市民の一人である国の制度では、この党は、もう一方の党、ジョージ・ブッシュの党、すなわち共和党と激しく競い合います。これらの政党、そして私の国アメリカは、世界的にも有力な地位にあるので、皆さんもご存知とは思いますが、バラク・オバマの唯一の対抗馬はヒラリー・クリントン、オバマが獲得した地位に非常に接近した、最初の女性でした。私はテレビでこの党大会を何度も見ました。普通はそんなに見ないのですが…。それは、たくさんの理由によって興味深かったからです。例えば、それぞれのテレビ局のニュース・ステーションは、レギュラーのコメンテーターとして有色人種や女性を招いていました。それは、私の記憶では初めてのことなのです。有色人種のコメンテーターの中には、政治的には左翼系の人までいました。女性コメンテーターの中では、私のお気に入りの人物、自由主義左翼のレイチェル・マドウが、自由主義右翼のパット・ブキャナンといっしょに頷き合ったり、馬鹿笑いしたりしていました。それはさらに奇妙な光景でした。
民主党全国大会では、すべての演説者が「アメリカン・ドリーム」、つまり、一生懸命働くこと、より高い地位を求めて努力することを訴えました。私の恋人がのちに指摘した通り、それは、まるで「小説のように描かれた」物語のテーマであり内容でした。私は、この物語の盛り上がりに、感情的な影響力を感じましたし、感じざるを得ませんでした。えぇ、ニコ、私の恋人の言った通りです。最近の政治状況では、政治は、新しい壮大なアメリカの小説になっています。それは、高みと低みという二項対立を前提とし、すでに定められたゴールの達成へ向かって、上へ、上へ、上へと登ろうとする、単一方向の希望に基づいています。そのゴールに対して、男性だけでなく今や女性も参加し、演説台で、アメリカでは特に弁舌巧みに、重々しく、「ドリーム」というレッテルを貼った、高められた場所に向かって大衆を鼓舞します。

一方、実際に、私が夜見る夢というのは、極端に高いけれども、はるか北の場所に、しばしば私を追い込めます。このような夢の一つの中で、ぐらぐらしたレバーだけを唯一の道具に、私はトラックを運転します。それを操縦して氷の道を進み、極寒の水際を走ります。そこ、北の果ての高い場所、私の夢の風景の中で、私は、奇妙なことに、生と死の境をなす絶壁上にいるのです。それは、不安な状態です。
どうしてこんな夢を見るのか、わかりません。北へ旅したい、あるいは、アメリカの排中原理の外側にある、素晴らしくも極端な場所を横切ってみたい、という秘密の願望が、私にあるからでしょうか。夢として、私の夢はアメリカン・ドリームでしょうか。その中で、私は徹底した個人主義者でしょうか。わかりません。いいえ、けれども、わかっています、厳しい寒さにも関わらず、激しく動きまわる孤独を表すこの夢の中で、私は、眠りの底にいながらも、目を大きく見開いた不安に、自分がとらわれているということを…。


ルヴィッツキー詩集『Under the Sun』

自分自身の想像力、心理状態、アメリカ人としての経験に照らし合わせて、私は次のようなことを示唆したいのかもしれません。徹底した個人主義と、より高くより遠くに行くための必要・要求によって特徴付けられたアメリカン・ドリームは、不安な夢なのです。それは、人々を怯えさせ驚きやすくさせますし、喜びやくつろぎを難しくさせますし、その中で実力主義に盲目的に寄りかからせます。他人に対して用心深く、自分の背中を見てばかりいるようになります。一つの逃れようのないこととして、この夢は、周りにいる他者たちを信用できない人間を作り上げてしまいます。実は、自分とその他者とはそれほど違った夢を持っているわけではなく、その人は自分の仲間になったかもしれないし、親交を築けたかもしれないし、共同体を作れたかもしれないのですが…。
けれども、上昇する、登るという巧みな表現(ロック・クライミングはだんだん人気のあるスポーツになってきましたが…)を拒絶する前に、私がお伝えしたいのは、民主党全国大会、初めての黒人大統領候補、そしてその候補に接近した最初の女性による演説の中で、しばしば触れられた高い場所という言葉巧みな夢は、多様な構成員から成る、平等主義社会の夢でもある、ということです。ですから、登るというレトリックを指摘し、批評することによって私が示したいのは、次のようなことではありません。女性、有色人種、貧民層、つまり、有力で白人で異性愛者で、口のぺらぺら達者な支配者層の外側にいるすべての人が、より良い状態を希望せず、苦難の中で従順に生きながら幸せになればいい、と言いたいのではないのです。そうではなくて、私が示唆したいのは、私たちは、私たち自身、まさしくそのような人間であることに気付き、個人的にではなく組織的に、この服従的な状態、これらの苦境と戦うことなのです。
それゆえに、人生には最も輝かしくて素晴らしい成果が存在するはずだという種類の考え方として、この上昇志向に基づく階層性の強いモデル(これは、逆に下降志向も含んでいますが…)に、私は疑いを持っています。文筆家として、私の生産物、私がもの作りをする際の道具とは、言葉です。そして、その生産物はテクストです。それは、ファイル、本、機関誌、雑誌、電子メール、ブログ、スローガン、ポスター、論争、手紙、スピーチ、パフォーマンスなどの形をとっています。私たち文筆家がなす仕事とは、それ自体、それ以上に、消費者としての仕事も含みますから、したがって、私たちの誰も、巨額の富を作れそうにないでしょう。巨額のドルを稼ぐという夢無しのまま、アメリカの詩人たちは、ときどき「名声」という企てられた摂理の中で、お互いを傷付け合います。専門的知識を持った高級管理職や利益追求者が権力を握っているアメリカで、お金と関係のない名声や賞は、この資本主義社会の考え方と逆行していると私には思えるのですが…。あなたが最も好きなアメリカ人文筆家(名前をここ____に入れてください。)の境遇がどうであったか、思い浮かべてください。その人は、その人生の中で、これまで何冊の本を売ったでしょうか。しかしながら、これも、登ることの一種で、階層的に偉人まで登りつめるという方法が、文筆家の中にも存続しているというわけです。それは、ハロルド・ブルームのような批評家によって「最も偉大な文筆家、……」と称されることを目指す物語です。そして、それは、のちに知られ過ぎるほど知られることになる、優れた「指導者」による、教条的な運動の物語です。例えば、エズラ・パウンドやアンドレ・ブルトンが頭に浮かびますが、その他の人々は格下げされて、アンソロジー編者の思い付きによって後から追加されたり、その博学さを披露するために使われたりする境遇となります。特に、女性の場合はそうです(ペネロペ・ロズモンの『女性シュールレアリスト』というアンソロジーがその良い例です)。女性たちを救うプロジェクト、女性たちを通して見えてくる物語や仕事、女性たちを活かす価値については、すでに数多く論及されていますが、私の提案とは、別の生産方法を考えることなのです。偶然思い付き、自分がそれを実行するまで、私自身気付かなかったのですが…。

1999年に、次のように方針を述べながら、私は「ベラドンナ*」を組織し始めました。


ベラドンナの花

ベラドンナ*は、フェミニストによる前衛的なイベント(ベラドンナ・シリーズ)を実施し、出版(ベラドンナ・ブックス)を企画します。それらによって、冒険性、政治性、多元性、多文化性、多ジェンダー性、予測不可能性、言語の不確実性を帯びた女性文筆家たちの仕事を激励します(非常に奇妙な趣向までも含めて…)。

アンソロジーや朗読会や本の見出しに、女性詩人の名前が欠けているのを述べ立てるよりも、むしろ、ベラドンナ*は詩を組織する方法を考案することに努めてきましたし、今も努めています。私たちはコンテストも行わないし、賞も出しません。上意下達的な事務処理もしません。かわりに私たちがするのは、関係性、協調性、芸術性、共同体性によって、ひたすら詩を産み出していくことなのです。形式の革新性や政治的な要求のために、私たちが重要だと考えた仕事をしている詩人のためであれば、どんな場所にいようと、どんな国にいようと、私たちはその詩人を追い求めます。
有意義で、ヒエラルキー的でない文筆家共同体を打ち立てるために、私はあるモデルを考案しました。次に述べるのは、その制作方法のいくつかの特徴です。

1)対話すること
私たちは、対話できる詩人と仕事をします。本や朗読会に関して、見知らぬ詩人が話を持ち掛けてきた場合、彼らのプロジェクトについて、私たちと連絡を取り続けるよう働き掛けます。
2)アナーキーであること
しばしば、あるいは、ゆくゆくは、私たちは、私たちとまさしく関係を持とうとする詩人と、思い掛けないことを産み出し、作っていきます。(1で述べた)私たちと連絡をとろうとする詩人たちが私たちを感嘆させ、その本を作りたいと思わせてくれるならば…。私たちの組織の仕組みは開かれています。私たちの仕事と関わりを持ちたい人が現れ、ともに何かをする際には、管理や結束はいりません。私たちを統率することも、私たちが統率されることもありません。それは、『Four From Japan』をどのように企画したかに、まず示されています。この仕事に取り組めば取り組むほど、私は多くの人と出会い、他者を統率したり管理したりすることには、何ら価値がないことに気付きました。
3)投げ出さないこと
私たちと詩人がお互いにともに仕事をすると一度決めたなら、どんなことがあろうと出版に応じます。私たちは、彼女たちを支援したいとそれまでに考えたわけですし、興味深い本が、しばしば編集者の目に止まらないことがあるのを、私たちは知っています。
4)共同で仕事をすること
詩人どうしがお互いに仕事をするだけではなく、私たちも彼女たちと協力し合って、ともに仕事をします。いかなることが起きようとも。
5)芸術上の希望を持つこと
私たちが上意下達的な方法をとらないこと、また、私たちの目的がジェンダーの不平等を改めるのでないことは、前にお話ししました。つまり、私たちが情熱を持って努力し続けていくことは、前衛的フェミニストの仕事を、芸術共同体の明確な構成に向かってまとめていくことなのです。
6)等価性、多様性、翻訳による移動性を持つこと
私たちのリストにある150名の詩人の顔ぶれを見たら、その人脈が幅のある広がりを持っていることに気付くでしょう。女性、(少ないけれども)男性、レズビアン、性転換者、英語・フランス語・中国語・日本語・スペイン語など様々な言語の詩人、黒人の詩人、ラテン系の詩人、インド、中国、フィリピン、韓国、日本、中東、中米、アメリカ都市部、年嵩の詩人、若手の詩人、労働者階級、貧しい人、裕福な人…。
7)芸術的に明晰であること
多様なものを一括して抱えていくことが、私たちの努力の中心ですが、それはおそらく、単一的で排他性の強い尺度に拮抗できるものです。私たちは、次のような種類の詩的実践と関係を築きます。政治的・批評的な戦略、形式上の革新、ハイブリッドな実験において注目すべき詩的実践、筋を重視しない場面的な散文、個人的な告白でないにも関わらず、共同主観的かパフォーマティブか何かを表明している詩、文学ジャンルや芸術分野の境界を越えようとする仕事、ジェンダーの二項対立を疑問視する仕事です。


スピーチ後のパーティにて


ルヴィッツキーと新井

ベラドンナ*は著しく異なっています、無目的でリゾーム的で非ヒエラルキー的で非営利的な交流によって、本やその他の文芸媒体を刊行している、単なる前衛詩集団とは…。アグリー・ダックリング・プレス、スウィッチバック、ブックリン、クラプスカヤ、ス・ラチュール、プレス・ギャング、すべて即座に思い浮かびますが、他にもかなりたくさんあります。『Four From Japan』の際に、私たちをよく支援してくれた小さな組織、ポエッツ・ハウスは、毎年、「2000のショーケース」という催しを主催して、その年に自主的に刊行された、かなりの数の詩と詩関連の資料を展示しています。この催しに出掛けて展示を見ると、アメリカにおいて、登るというヘゲモニーの外側で、資本主義的でない生活が繁栄していることを目の当たりにします。
テクストの生産者、本の生産者として、私が述べたいのは次のようなことです。私たちが産み出す物というのは、片方の手では革新的な文筆家、もう片方の手では困難(疲労、飢餓、貧困)の渦中にある人々の支援者であるような活動家・フェミニストのためにあるのではなく、むしろ、自分たち自身が困難を抱えていることを自覚し、その取り巻かれた制度に気付くためにあるのです。私だけが特別な存在では、きっとないはずです。生活するために十分な稼ぎのある仕事をなかなか持てなかったり、健康保険に入れなかったり、このような状況に対して、なぜもっと効果的に自分たちを組織できないのかと思案したりすることは、皆さんにもあるのではありませんか。

註)「ベラドンナ*」のアスタリスクは、ベラドンナの花を表しています。それは、赤紫色の花と黒い実をつける、有毒なナス科の植物(ベラドンナ)です。命に関わるほど、心臓や呼吸器を刺激します。

(翻訳:新井高子、協力:塚越祐佳、『ミて』105号初出改稿)