編集人:新井高子Webエッセイ


4月のエッセイ

  • 星として生きる

北野健治

 その日、僕は東京にいた。妻の長かった里帰り出産を終えるため、彼女らを迎えに、その前日の夜に東京入りした。当日は、朝から妻とともに幼稚園、市役所と回り、午前中には一通り帰島のための公的な手続きを終えた。少し遅めの昼食をとって、妻らが仮住まいしていた団地に帰宅し、一息ついていたところだった。
 始めはゆっくりと。しかし確実に大きくなる揺れに、妻が異変を感じ取り、息子を連れて外に出るようにと叫ぶ。慌てて子どもの手を引いて外にでる。団地前の道路には、同じように避難のために出てきた人たちが大勢いた。その脇の街路樹は、今まで見たことがないほどに大きくしないでいた――。
 2日後、運航を危惧していた飛行機に予定通り搭乗し、僕たち一家は種子島に帰島した。その飛行機が羽田を離陸するとき、僕は小さくなっていく東京を眺めながら、なぜだかある〝少女〟のことを思い出していた。

※              ※

件のバーに僕が行きつけ始めたある日のこと。カウンターの中に彼女はいた。〝少女〟と書いたが、年齢的には、すっかり女性。なのに、あどけなさとひたむきさが漂う雰囲気が、すごく印象的だった。実際の彼女とは違うけれど、桃割れの髪型が似合うような。だから僕には、今でも〝少女〟だ。
 今でこそ女性のバーテンダーは見かけるようになったけれど、20年近く前では物珍しかった。それも若い女性は。でも、彼女は「女」を売り物にすることなく、きちんと仕事をしていた。余計なことは言わず、手際よく仕事をする彼女の立ち居振る舞いは、とても居心地のいいものだった。
 何度か店で顔を合わせたある日、今度、近々恵比寿にオープンする店のチーフとして勤めることになった、と彼女が嬉しそうに話してくれた。オープンの日と店を教えてもらい、彼女にビールを奢って、ささやかな祝杯をあげた。
 数週間後のオープンの日、約束どおり店を訪れた。果たして彼女がカウンターの中にいた。混雑する店の中、いつもどおりの手際のよさで仕事をこなしている。同僚と訪れた僕たちにも、気持ちのいい対応をしてくれた。誘った友人は気に入って、また来よう、とも言ってくれた。
 「アクシデント」とは、その字義通り突然起こる。春まだ浅い頃、いつものバーに彼女が意識不明で入院したとの噂が流れた。安否を気遣う間もなく、追い打ちをかけるように、他界したとの話をバーのマスターから聞いた。
 彼女には、仲のいい女性バーテンダーがいた。僕は、二人を姉妹というよりもニコイチのように感じていた。そのもう一人の片割れとは、今も付き合いが続いている。今回、原稿に書く気はなかったのだけれど、どうしても亡くなった彼女の名前が気にかかった。思い出そうとすればするほど、喉元まで出掛かっているのに思い出せない。そこで久しぶりにニコイチの彼女にメールで連絡を取ってみた。
 少し間をおいて、彼女からメールが返ってきた。普段は、文章を綴ることのない彼女が送ってくれたメールは、とても僕が安易に抜粋・引用できるようなものではなかった。少し長くなるけれど、以下に転用したい(本人了承済み)。

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北野サン
夜分遅くにスミマセンm(__)mm(__)m
エッセイの話嬉しく思ってます
あの子も自分の話されて照れてると思います)^o^(
彼女の名前は都河理絵ツガワリエです。
北野サンにいつも、「お前ら本当仲良いよなぁ! いっつも2人で居るし、金魚の糞だな」って言われてたのを良く覚えてます。
出会ったのは、嵐みたいな子だったので(~_~;) あまり良く覚えてないのですが、彼女が逝く1~2年前です。
カクテルコンペの時、FILLの山田サン(著者注:かつて渋谷にあったバーのマスター)に連れて来て貰って今度ウチに入ったんだと紹介されました。第一印象は、明るくないけど若いのに色白美人で、なんだ! この色気は(~o~) でした。
年も二十代前半で近く、女子はカナリ少なかったので、その日にもう仲良くなっていました。
見かけによらず人懐っこい子で、それからはいつでも頼ってきてくれて私もお姉さん気取りでした。
どこに行くにも一緒で、彼女を泣かせる奴には私が牙を剥いてました(--;)
ある時知り合いのバーテンダーに言われたんです。彼は手相をみるのが趣味で当たると評判でした。その彼が、「都河の手相こないだみたんだけど、アイツいつ死んでもおかしくない手相してたんだよ」と、私は「二度と言うな!!」と本気で切れて、東京初雪(^O^)の中、無邪気に前を酔ってフラフラ歩いてる彼女を追いかけながら、「私の命に替えたって絶対死なせない! ふざけんな!!」って思ったのを良く覚えてます。
彼女とは仕事の話、内緒話、なんでも話す中でしたが、ある時期から私を避けるようにパッタリ話をしてくれなくなったんです。
何をどう聞いても、「うるさい~! ほっといて~!」といつも赤ワイン片手に酔うばかりでした。
私も仕事が上手くいかず、彼女に色々聞いて欲しかったりもしていたので、どうして良いのか分からなくなってたのでしょう。
そんな夜に、彼女から久しぶりに電話がかかってきました。当時は携帯もなかったですが、1人暮らししてた時のダイヤル式です。
「やっと話せるようになったから、会って話したい事があるんだぁ。で、私彼氏が出来た~! 今度の月曜の夜会って。電話するね~!!」と。
それが生きてる彼女からの最後の電話でした。
1992年4月6日深夜、彼女は新しく出来た彼氏の家で大好きな赤ワインを飲みながら、大好きな映画の「ベティブルー」を観ながら意識不明の重体になり、救急車で運ばれる途中、二十歳の心臓だけは動き出し、それから昏睡状態が続き、三週間後とうとう心臓も止まりました。
三週間の間に、彼女が私に何を話そうとしていたのか、話せなくて辛いと友達に漏らしていた事が明らかになり、私自身が彼女を一番苦しめてたのかと情けなくなり、私はその三週間の事も記憶がほとんど無いんです。それから一年位は人と接する事もまずなかったです。
ただ理絵が夢で電話をくれました。一度だけ、一言だけ、「ミコサンごめんね」と。
もう20年経ってるなんて思えないです。
長~~~くてスミマセンm(__)m
また何かありましたらいつでもご連絡下さいませ。

ほぼ20年振りに写真で会った都河(左)とメールの彼女
ほぼ20年振りに写真で会った都河(左)とメールの彼女

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妻と子どもたちが、種子島に帰ってきて早3週間が経つ。少しずつ以前の生活のスタイルとペースを彼女なりに整えていく。乱雑だった男やもめの居間も整理整頓されていく。そんな中、彼女から、こんなものを見つけた、いらないなら整理して、と一枚の新聞の切抜きを手渡された。
「『命こそ宝』 魂よ響け 沖縄『慰霊の日』を前に 作曲家・琉球大教授 中村透」(2009年6月20日 朝日新聞)
 読みながら、今なぜ出てきたのか得心した。
 中村氏は「『ヌチドゥタカラ(命こそ宝)』という言い伝えが沖縄にある」とその言葉を取り上げる。それが「戦後は反戦平和を願う沖縄の人々の合言葉として語り継がれてきた」状況を紹介しながら、次のように言葉を続ける。
「80年代の終わりごろ、沖縄の伝説の生き物を題材とするオペラ創作に熱中していた私は、この言葉をまったく違う文脈で投げかけられることとなった。沖縄創世神話の取材対象であった大宜味村の大城茂子さんがその主である。
(中略)
 茂子さんは『ひとの命は、はるか昔から遠い未来まで、ティンガーラ(天の川)のように続いている。その無数の星のうちのひとつの輝きがあなたの今の命なのだ。だからそのすべての命のために、ヌチドゥタカラとして生きなければならない』のだと言った。」
 真夜中に僕は、どうしようもなく独りだと実感することがある。それは、たとえ愛する妻や子どもがいても埋めることのできない、生まれつきのディフェクトのようなもの。だからこそ他者が愛おしい。
 その人たちは、ずっとそばにいる。都河も、メールをくれた彼女も、この東日本大震災で罹災された人々も。過去から未来の流れの中で、生者も死者も、あの夜空の中で輝き続けている。
 寝息を立てている家族を起こさないように、そっと家を出る。頭上には満天の星。浴びるような星々に包まれながら、祈りにも似た静寂なひとときに満たされていく。