編集人:新井高子Webエッセイ


11月のエッセイ

  • 島の騎士道

北野健治

この9月に、家族四人で初めての家族旅行をした。あることがきっかけで、父が他界してからの年数を計算してみたところ、ちょうど今年が33回忌にあたることがわかった。それも、ひとつの契機となった。
 父の墓は大阪にある。前の職場が兵庫県にあったこと、そのため知人や妻や息子の友達もいることから、大阪・兵庫への旅となった。生来の貧乏性から、できるだけ多くの友人と会えるようにした過密スケジュールとなってしまった。いつもながら妻に苦情を言われるようになったのだけれど。
 その一人に、ギャラリーほそかわ(http://www.galleryhosokawa.com/)のオーナー、細川佳洋子さんがいる。彼女とは、編集者時代からの知り合いで、独立される前からお付き合いをさせていただいている。
 いわゆる目利きで、いつもきちんとした作家の作品を紹介されている。その上、ビジネスもシュアーで、顧客の趣味と懐具合を熟知した、その人の心をくすぐる作品を提案してくる。ために、妻も作品には興味がある方なので、兵庫在住時代には、いくつかの小作品のお世話になった。
 今回、約3年振りにギャラリーにお邪魔した。以前は、大阪市の中央・薬問屋で栄えた古い街並みが残る道修町の界隈のビルの一室にあった。それが、湊町の再開発によって見違えるようになった、大阪ミナミ近くの現在の場所に移った。このたびのギャラリーは、初めての訪問。


森末由美子「文庫」
(ドン・キホーテ)
2011年 ガラスに砂絵
14.8×10.5㎝

個展直前の準備中ということもあって、ギャラリーの中は、まっさらな状態。にもかかわらず、招き入れてくれたオフィスには、いくつかの魅惑的な作品が用意されてあった。
 その一つが、準備中の個展の作家・森末由美子氏の「文庫」(ドン・キホーテ)。彼女は、そのときどきに興味のあるテーマを追究し、さまざまなスタイルの作品を発表しているとのこと。細川女史が薦めてくれたのは、砂で文庫本の表紙を模写したもの(写真)だった。
 “本”という物そのものも好き、という僕の趣向と作品の繊細な美しさから、やられてしまった。

※              ※

『ドン・キホーテ』は、いわずもがなスペインの作家、ミゲル・デ・セルバンテス(1547-1616)の作品。正・続の二部構成からなっており、その趣は、前・後者で、かなり異なる。
 両篇に通じているのは、主人公のドン・キホーテの誇大妄想から生じる一連の騒動。だが、正篇のドン・キホーテの現実への能動的な働きかけによる騒動が、続篇では、彼に周囲が合わせて起こすものに変わっている。それでも、読み物としての面白さは、変わらないのだけれど。
 そうそう、もう一つ作品を貫いているのは、「騎士道」の精神。この精神については、いろいろと解釈がある。僕としては、聖母マリア―ひいては人妻へのプラトニックな献身が特徴という説に惹かれる。その意味で、その愛のヴァリエーションが、『ドン・キホーテ』でも変奏される。
 そんなことを思い出していると、"愛"そのものが、誇大妄想的な要素=想い込みがあるのかもしれない、と思うようになった。
 つい先日、同僚の奥さんのご尊父が、ガンで亡くなった。再発であったものの、それが判明した時点でも、手術を拒否された。その理由の一つが、奥様が身障者で、車椅子の生活を余儀なくされているから。二人暮らしのご主人は、自分が手術を受けると、その間、パートナーの世話ができなくなることを危惧されたからだった。
 亡くなる二日前、病から生じるあまりの痛みに錯乱状態になった。少しでも苦痛を和らげるため、鎮痛剤としてモルヒネを投与された。その翌日に他界された。
 推し量るに、意識を失うことを恐れ、その痛みの極限まで、そう錯乱するようになるほどまで痛さを我慢されていたのであろう。奥様のために。
 その二人の絆のかたちに、いやご主人の一途な想いに、僕は胸がいっぱいになった。これは、聖母に献身する現代の騎士の姿と言えないだろうか。
 小説『ドン・キホーテ』は、淡々とした主人公の死を描いて終わる。その波乱に満ちた後半の人生に対比するかのような結末。
 "劇的"なことは、人生にさほど起こらない。よりも、平凡に見える人生こそが、"劇的"なのではないか。
 島の騎士が貫いた愛のかたちを前にして、そんなことを考えた。僕も、大いなる愛に殉ずる騎士道に、連なることができるように願いながら。