編集人:新井高子Webエッセイ


2月のエッセイ


  • 翻訳の実践 -詩人・村野四郎の作品群を英訳する-

高野吾朗

村野四郎詩集

1. はじめに


 わたしはここ最近、継続的に日本の現代詩の英訳作業を独力で行なっている。今回、この場を借りて紹介してみたいのは、日本の昭和期を代表する詩人・村野四郎(1901-75)の五作品の(わたし自身の手による)英訳版である。
 青年期だった1930年代、当時のドイツを賑わわせていた新興芸術運動「ノイエ・ザハリヒカイト」(新即物主義)から多大な影響を受けた村野は、その集大成とも言える第二詩集『体操詩集』(1939年)により、その名を広く世に知られるようになった。戦後になると、彼はハイデッガーの実存主義哲学へと次第に接近していき、「実存への郷愁」という独自の概念にこだわりつつ、ますます旺盛な創作活動を展開していった。自然主義的な文学のありようにあえて異を唱えるかのごとく、ひたすら実験的な詩作を続けていったおよそ五十年に及ぶ村野の詩人としてのキャリアの頂点、それはおそらく、1960年に読売文学賞を受賞した第九詩集『亡羊記』(1959年)の出版であったろう。ブラックホールの如き実存の深みへ身を投じようとする詩人の、ニヒリズムの一歩手前であえて留まろうとする精神の強靭さ、そして、最後まで冷静かつ論理的であろうとする知性の凄みが、この詩集の至るところに見え隠れしている。
 わたしの知る限り、村野の『亡羊記』の英訳バージョンは、まだどこからも出版されてはいないはずである。今回、わたしが英訳のために選んだ五つの詩――「盲導犬」「冬庭」「眠りの前の祈り」「変な界隈」、そして「永遠的な黄昏」――は、どれもこの『亡羊記』に収録されているものばかりである。これら五つの作品の日本語オリジナルとわたしの英訳とを対照させながらお読みいただくことにより、日本語詩の英訳に関わる何らかの問題点に読者それぞれが自発的に気づいて下されば幸甚である。無論、わたし自身が英訳の過程で直面した主な問題点のいくつかも、ひとつずつ列挙していくつもりである。



2. 行数の一致、そして接続詞の追加


 それではまず、「盲導犬」という詩の日本語オリジナルを紹介する。



盲導犬

あれに何もあたえてはいけない
あれは孤独を食って生きているのだから
やさしい言葉もかけてはいけない
人の声をきく耳は 皮癬をやんで
小さく退化しているのだから
あれはツツジの植込をくぐり
見知らぬ国境の方へ行く
あれは沙漠の猛獣圏をすぎる
けれども月下のけものたちは
物かげにかくれて かれを避ける
あれの寂寥を食うものは
みんな死なねばならぬからだ
神さえ あれを
取ろうとはしない
あれはひとり
深夜の崖の上にきて たちどまり
かすかに流れる血の匂をかぐ
そして無限に遠く
祖先の祭のさみしい気配に
きき耳をたてるのだ


 続いて、わたしの英訳バージョンを紹介する。



Seeing Eye Dog

Don’t feed anything to it
It feeds only on solitude
Don’t speak to it gently
Its ears suffer from the itch and atrophy
Although they can still hear human words
It now passes through a shrubbery of azaleas
And heads for a strange frontier
Passing by a zone of fierce animals in a desert
While those animals hide themselves under the moon
And attempt to avoid it
They know they would be destined to die
If they ate its loneliness
Even God does not
Venture to have it
So it visits alone
The top of a midnight cliff and stays there
Sniffing blood running somewhere slightly
And pricking up its ears
To the lonesome sign of its ancestors’ festivity
Coming from an eternal distance off


 日本語詩の英訳の際、わたしがとくに留意するのは、「オリジナルの詩の行数との完全なる一致」である。この点にこだわるのは、できうる限り、オリジナルの形状を損なわないようにしたいがゆえである。この「盲導犬」の英訳の際も、原作中の各パートの行数との一致にはとりわけ心を砕いた。
 さらにもうひとつ、ここで付け加えておきたいのは、英訳版の五行目に登場する“Although”という接続詞、および、十五行目に登場している“So”という接続詞である。これらの言葉は、実は原作にはまったく登場していない。しかし、英語版においては、文脈全体にできうる限りのロジック(あるいは連続性)を与えるべく、あえてこうした接続詞を補助的に利用してみることにした。



3. パラフレーズ


 次に紹介したいのは、「冬庭」という詩である。



冬庭

ひとしきりみぞれがすぎた
閑寂な石の上に
ジョウビタキが一羽きている
その小さな息づきが
いそがしい

おまえは どんな国から
のがれて来たのか
どんな時間から抜け出てきたのか
赤と黄の 小さな鎧武者よ

おまえの密書のなかに
ぼくは いま ちくいち
他界のてんまつをしるのだが
ぼくらの出会いは
人目にふれてはならぬのだ
冬がれの華麗な使者よ
ぼくをひとり この寂寥において
倏忽として 夢のようにとびされ
だが ぼくらは いかなる大団円の
凍る日に
また会うことができるだろうか


 この詩の英訳でもっとも神経を使ったのは、「赤と黄の 小さな鎧武者よ」「冬がれの華麗な使者よ」といった「呼びかけ」表現の処理であった。これらを「感嘆」または「断言」的表現に微妙にずらしつつ、英文の調子を整えようとした結果が、以下のごとき英訳である。



Winter Garden

After it sleeted for a while
A redstart comes flying
And sits on a tranquil stone
Its faint breathing seems
Restless

What kind of country
Did you escape from
What kind of time did you slip from
What a tiny red-and-yellow armored samurai you are

Now, through your confidential letters
I learn the whole story about
The other world
Nevertheless, our encounter
Must remain completely unnoticed
Under the nude trees of winter, you’re a glorious messenger
Fly away swiftly, like a dream
Leaving me alone here in this solitude
Ah, what kind of frozen finale
Will await us
Next time we meet


 また、この詩の最終連の最終部「だが ぼくらは いかなる大団円の/凍る日に/また会うことができるだろうか」を翻訳する際、わたしはこの箇所を「ぼくらが次に会う時、いかなる凍った大団円がわれわれを待っているだろうか」といったんパラフレーズしてから英訳してみた(その際、英語上の流れでは、もはや「だが」といった逆接の接続詞を入れ込む必要をまったく感じなかったので、これを排除し、その代わりに感嘆詞[“Ah”]を挿入してみることにした)。直訳を常に重んじる翻訳者から見れば、こうしたやり方はオリジナルを単に「歪めている」だけ、ということになるのかもしれない。そうした批判をあえて覚悟の上で上記のように訳した理由、それはひとえに、“Next time we meet”という終わり方の醸し出す静謐かつストレートな余韻を失いたくなかったから、ただそれに尽きる。



4. 直接話法か間接話法か


 三つ目に紹介するのは、「眠りの前の祈り」という詩である。



眠りの前の祈り

わたしは遠くきくのです
たえずどこかへ崩れてゆく
かすかな かすかな砂の音を

わたしは近くきくのです
首のない鳥たちが 爪と牙からのがれてきて
枝をさがして群れているのを

わたしはそっと言うのです
「わたしの死体をおまもり下さい」と
名前もない父と母に

数しれぬ骨の上にひざまずき
小さな黒い鎧櫃(びつ)の
内からひとり掛金をかけながら


 この詩の英訳でわたしがもっとも気を遣ったのは、第三連に登場する直接話法(「 」)の部分である。機械的に引用符(“ ”)を使用することにより、この「死を守りたい」という訴えの部分をそのまま直訳してしまう手も無論あったわけだが、もっと「声なき声」のごとく見えるように訳した方が、この詩が全体的に持っている独特の静けさを、「生は無意味だ」などといった虚無的ニュアンスをことさら発することなく、むしろしっかりとキープし続けることができるのではあるまいか――そう考え、わたしはあえてこの部分を間接話法で訳してみることにした。以下が、わたしの英訳である。



A Prayer Before Sleep

I hear a distant sound
Of sand so, so faintly
Crumbling somewhere constantly

I hear a nearby sound
Of a flight of headless birds escaping from talons and fangs
And seeking new branches

Now I ask quietly
The nameless father and mother
To protect my own dead body

I kneel down on numberless bones
And latch alone the lid of a small black box
Of armor from its inside


5. 時制の問題


 四つ目に紹介したいのは、「変な界隈」という作品である。



変な界隈

このへんの塵埃箱(ごみばこ)は
さかなの骨とか腸詰の尻とか
どれも死でいっぱいだが
ある日浮浪者が
なに気なく 一つの箱の蓋をあけると
それには底がなくて 井戸のように深く
そのまま ずうっと
世界の向うがわへ抜けていた

たれかが隠しておいた抜道にちがいない
だが そこから覗くと
地球には核がなく
からんとして 冥府(あのよ)もなかった

彼は舌うちをした
そして ぱたんと蓋をしめた
すると忽ち一切合財が
もう まわりの死と見分けがつかなかった


 ご覧のとおり、この詩は主に過去形で語られている。この時制をそのまま英訳に反映させるべきか否か、そこがわたしにとって非常に悩ましい問題であった。仮に過去形を採用して翻訳した場合、この詩の英語版が表すことになる世界は、とある一個人にたまたま起きた、あくまで一過性の過去の事象のごとく映るのみとなりかねない、そう思われたのである。それでも別に構わないのかもしれないが、そうすることによって、オリジナルの詩が湛えている寓話的な永遠性(あるいは「永劫回帰」性)がうまく伝えきれなくなってしまうのは、いかにも惜しいような気がした。そこでわたしは、あえてこの詩を現在形のみで訳してみることにした。



Strange Neighborhood

Every garbage box in this neighborhood
Is riddled with death
Such as fishbones and the snipped bottoms of sausages
One day, a vagrant
Lifts the lid and discovers
The bin is, in fact, bottomless and so deep like a well
The hole goes all the way through
To the other side of the world

Must be somebody’s secret passage, the bum thinks
He looks into it more carefully this time
And finds the inside of the Earth coreless and hollow
And the Underworld nonexistent

He clicks his tongue
And shuts the lid
Then, all of a sudden, all things on earth
End up indistinguishable from the death surrounding him


 この詩の英訳についてなお付言すると、英語版では文脈の都合上、「浮浪者」という言葉を二回登場させざるをえなくなった。英語の性格上、同じ名詞をすぐさま続けて繰り返したくはない、という思いから、この英訳では“vagrant”と“bum”という二つの同義語をあえて使い分けている。



6. おわりに


 最後に紹介したいのは、「永遠的な黄昏」という詩である。



永遠的な黄昏

鳩は ふしぎそうに
首をかしげて
枝の下をながれていく何かを見ている

そして何かが
彼女の足にふれるのを
おそれるように ふるえながら
小きざみに
枝の上に身をうつす

その危険な
ルピナスいろの黄昏のバランスが
詩人の心臓を
鳩の形にする

枝の下を
気味のわるい 不安なものが
果しもなく游いでいく


 この詩の英訳において、思わず頭を抱えざるを得なかったのは、第三連の「バランス」に関する部分である。いったい、この「バランス」を「どうする」(あるいは、この「バランス」が「何をする」)ことで、「詩人の心臓」が「鳩の形」になるというのか。英訳をする際、そこまでのパラフレーズがどうしても必要に思えたので、オリジナルの極端な誤解・曲解にならない範囲内で、あえて言葉をあらたに継ぎ足してみることにした。最終的にわたしが選んだのは、(この「バランス」を)「見つめる」という動詞であった。と同時に、最終連の冒頭に”Still”という副詞をあらたに補うことにより、この連が描こうとしている特殊な現象の「以前から全く変わらぬ永遠性」をさらに強調してみることにした。



Eternal Twilight

With a puzzled look
A dove inclines her head
Staring at something streaming under her branch

As if she fears something unknown
Touching her legs abruptly
The bird moves
Gradually up on the branch
With a shudder

The precarious equilibrium of lupine-colored twilight ―
Staring at this balancing act shapes
A poet’s heart
Into something like a dove

Still, under the branch
Something uncanny and alarming
Keeps passing endlessly


 村野四郎の詩を英訳するに際し、わたしは場面に応じて(とりわけ話法・時制・文脈の流れといった側面に関し1)自分なりの追加・修正を訳文中に加えることをあえて辞さずにきた。こうした一連の決断ができた背景には、実はそれなりに理由があった。
 実際の翻訳作業にとりかかるその前に、わたしはまず、村野本人が残したいくつかの詩論をじっくり読んでみることにした。たとえば「心象論」という詩論の中で、村野は自分の詩作が「歌う詩」から「考える詩」への現代的移行を色濃く反映したものであると強調したりしている。彼は自身の詩が、感情や音楽性の所産たる韻文としてではなく、むしろ、知性と論理的心象に基づく造型として読まれることを強く願っていた2。となると、ひとつひとつの連が生み出す各イメージは、いかにそれらの組み合わせが結果的に複雑かつ多次元的となろうとも、どれもみな単独で見た場合は、いたって明瞭かつ論理的に読みやすいものであらねばならなくなるはずである。日本語のわからぬ読者層を主に念頭に置きながら、わたしは村野のこうした制作意図を、自分の英訳上の大事な指針のひとつにしてきた。その延長線上に出てきたのが、上記のごとき細かな意訳の試みの数々だったのである。
 ちなみに、上記の五つの詩を収録している詩集『亡羊記』のあとがきの中で、村野は自らの詩作のキーワードともいえる「実存への郷愁」という言葉を説明するに際し、こう述べている。



「詩人はいつでも、魂の故郷にむかう一人の薄明の帰省者であり、また永劫の旅人でもある」3
「だがぼくは、けっして堕落したニヒリストにはなりたくない。ぼくが主題を喪失したかに見えるのは、ぼくのアナアキックな体勢にすぎない。ぼくは、その唯一つの方法によって生を確め、ぼくの地点を確認することによって、いつでも現実への飛びこみを用意しようとしているからだ」4



 彼の詩に流れているこうした永劫性への志向、そして、たとえ絶望的な「死」の世界に言及することになろうとも、ニヒリズムへ安易に陥ったりはしない、といった敢然たる基本姿勢――こうしたオリジナルの持つ気分をも、わたしはできうる限り英訳に反映させるようにしたつもりである。


 わたしはプロの翻訳者などではない。わたしが村野のような日本の詩人の作品群を独自にこつこつ英訳し続けているのは、単にわたし自身が英語で詩作する人間であるからにすぎない。わたしが翻訳したくなる詩は、どれももともと自分の好みにあったものばかりであるわけだが、いったん翻訳という作業を通じてそれらを眺め直してみると、その詩の中に置かれた言語表現・イメージ操作・連の構成具合のひとつひとつに対し、自然とこれまで以上に目を凝らさざるを得なくなる。その結果として、今までの自分の理解がいかに表面的であったかを、なおいっそう思い知らされることになるのである。こうしてあらたに得た詩作上の知識や情報を、今度は自らが英語で詩作する際に様々に応用してみる――これこそがわたしにとって、日本語詩英訳の最大の醍醐味なのである。


<参考文献>
村野四郎(1987)現代詩文庫1028『村野四郎詩集』思潮社


1 村野の詩を訳す際にはほとんど問題視する必要がなかったものの、一般的に日本語の詩を英訳する際、不可避となりがちなもうひとつの留意点として、日本特有の地名(例:市町村名)や人名(例:歴史上の英雄名)といった固有名詞の処理の問題が間違いなく挙げられるであろう。こうした語群が伝統的に内包している独特の文化的背景やニュアンス(日本人読者なら説明なしでももはや一目瞭然だろうが、日本語を解さない読者にはほぼ伝わらない類のもの)に関しては、わたしはもっぱら、英語版の直後に脚注を駆使し、あえて補助的説明を試みるようにしている。詩の翻訳に脚注をつけることについては、おそらく(特にその美醜に関して)是非があろうが、わたしは脚注の「見た目のまずさ」よりもむしろ「情報としての重要性」の方を高く買うタイプの翻訳者である。
2 詳しくは、村野四郎「心象論」、現代詩文庫1028『村野四郎詩集』(思潮社:1987年)、p112-9を参照のこと。
3 『村野四郎詩集』、p93
4 『村野四郎詩集』、p94