編集人:新井高子Webエッセイ


4月のエッセイ


  • 電話線の向こう側

北野健治

 寒暖の差が激しかった1月末。友人と飲んでいると携帯電話が鳴った。メールの着信音。タイミングを見計らって席をはずし、画面を見る。そこには、田舎の同級生の名前。悪い予感がする。帰省の時季でもないときに、郷里からの連絡は、50歳を過ぎるとほとんどが悪い報せになってきている。
 果たして予感は当たる。先の年末・年始の帰省の際に、いつも集まる同級生のメンバーから噂として聞いた、ガンだという同級生の訃報だった。
 メールをくれた友だちに至急連絡を取る。彼は葬儀には参加できないとのこと。僕は、他界した同級生と住んでいた集落が同じだったこともあって、地元に住むかつては「女子」の同級生に連絡を取りなおした。
 この田舎の同級生の感覚は、ちょっとわかりづらいかも。僕は、小学校に上がる前に島に移って、それからだけど、島で生まれ育った同じ町内の同級生たちは、男女を問わず幼いころからずっと顔見知り。同級生同士のカップルも数組あったけれど、男女の関係を超えたフランクな付き合いが続いている。
 連絡を取った女子は、ちょうど通夜から帰ってきたところ。他界までのいきさつを通夜の状況と絡めながら、まずは話を聞く。そのあとに香典と友人たちで送る献花にも参加させてもらうよう頼んだ。
 慌ただしく3月に入る。メディアでは、東日本大震災の話題が急増する。その1つに、NHKドキュメンタリーの『風の電話~残された人々の声~』があった(※1)。
 「風の電話」は、しばしばメディアで取り上げられている。私が知ったのは、朝日新聞での記事。内容を要約すると、「風の電話は岩手県上閉伊郡大樋町にある電話ボックス。<概要>海が見える風景を気に入り移住したSさんが、亡くなった従兄ともう一度話がしたいとの思いを込めて庭の隅に設置した電話ボックスで、中には電話線の繋がっていない黒電話が置いてある。2011年3月11日の東日本大震災で、自宅から見える浪板海岸を襲った津波を目にしたSさんが、助かった被災者が、亡くなって会えなくなった被災者と想いを風に乗せて伝えられるようにと開放した」(※2)もの。
 残念ながら、僕はこのドキュメンタリーを見ていない。が、想いを込めて送受話器を手にする人たちの姿を想像することは難くない。このとき電話機は、携帯ではなく、やはりケーブル線のものでないといけないのだろう。


※              ※


 僕が、高校時代の同級生の彼女と話すようになったきっかけは、2年生の体育祭後の事件だった。ちなみに彼女は、島の別の町の女子。だから、高校生になってから同級生となったグループの子。はっきりとした顔立ちの女の子だった。入学して間もなく、バスケ部の同級生と付き合っていた。それは、2年生に進級する頃には、解消されたようだったけれど。
 体育祭後の事件のあらましは、こうだ。今から思えば、昭和50年代はおおらかだった。高校生でも隠れてとは言いながら、半ばおおっぴらに酒を飲んでいる輩がいた。かく言う僕もその一員。もっとタチが悪いのは、僕らの仲間は中学生のときから酒に親しんでいた。そのため高校に入る頃には、自分に合った酒の飲み方や量を把握していた。
 そんな時代、僕たちの高校の体育祭には、仮装行列のプログラムがあった。張りぼての出し物を作り、各クラスが競い合う。そのため1ヵ月以上も前から放課後に担当メンバーを中心に出し物を製作する日々が続く。次第にボルテージが上がり、そのクライマックスが体育祭当日だ。
 そこまでは、よかった。が、なぜか2年生のときに、その打ち上げをしようということになった。体育祭が終わったその晩、クラスごとに下宿生の部屋や離れのある同級生の家に集まった。最初はおとなしかった。でも血気盛んなセブンティーンたち。ジュースだけでは盛り上がらないという雰囲気になる。
 さっきも書いたように、おおらかだったと思うのは、見るからに高校生(というよりも、地元には面が割れている)の僕たちが酒屋に行っても、問い質すことなく気持ちよく酒を売ってくれた。その手に入れた酒を初めて飲むというメンバーもいて、いつの間にか収集のつかない打ち上げになっていく。
 また運が悪かったのは、そのころちょうど町は町議選の真っただ中。酔っぱらった奴らが、ふらふらと町中に繰り出したものだから、騒ぎが大きくなった。その晩は、町を挙げての酔っぱらいの追跡劇が繰り広げられたという。
 と、聞いたような口ぶりで書くのには理由がある。僕は、打ち上げの最初は参加していた。が、酒を買いに行くという段になって、酒を飲んだこともない素人たちと座を囲むのは、なんだか悪い予感がした。そのため買い出しの際に中座した。町が大騒ぎしているころには、僕は独り自宅にいた。
 翌日の振替休日。家でごろごろしていた昼前に、電話がなる。何気なく取った受話器の先の声の主が彼女。それまでほとんど話したことのない彼女が、泣きそうな声で、昨夜の一部始終を語る。「どうすれば、いい――」という彼女の問いに、しばしの沈黙。なんで俺のところに電話してきたのかなぁ、と戸惑いながら、とりあえず担任の先生ところに相談しにいくのがベターじゃあないかと返答した。「一緒に行ってくれない?」という彼女に、重い腰を上げ、同行した。
 その後、紆余曲折がありながら、学校が出したお達しは、飲酒の席に参加した生徒は停学というもの。そのため2年生の大半が停学という事態になり、高校始まって以来の前代未聞の事件になった。
 それ以降、彼女とは学校でも親しく話すようになった。その延長線で、いつしか自宅から電話するようにもなった。人目を気にしない気安さからか、電話での会話は、いつの間にか長電話になっていった。1時間はざらで、最長記録は約5時間ということもあったっけ。でも内容は全然覚えていない。ただ1つだけはっきりしている。好きになったにもかかわらず、最後まで一度も「好き」とは言わなかったこと。
 携帯電話を使っていて感じることは、いつ・どこででもかけられる便利さだ。その一方で、ケーブル電話は、場所や状況の制約多さに改めて気づかされる。その時、その場所にいる、その人を指定する。何よりも、話す相手と「つながっている」ことが実感できること。それは、伝える言葉の切実さと深さに反映されるような気がする。
 高校を卒業して数年後、偶然、彼女と出会った。大学の春休みの帰省から大学へ戻るとき、僕は故郷の最寄りの国鉄の駅で電車を待っていた。ホームに電車が止まり、ドアが開いた。何気なく正面を見る。そこに彼女が立っていた。
 すっかり女子から女性へと大人びた彼女。お互い一瞬、時が止まり、声が出なかった。長いような、短いひと時に発車のベルの音。慌てて電車とホームの場所を入れ替わった。
「元気だった?」
「ええ」
「また電話してもいい?」
 彼女が頷くと同時に、ドアが閉まる。電車は、彼女をホームに残して、静かに発車した。
 結局、僕は電話をかけなかった。でも、僕は知っている。言い損なった言葉を伝えようかと電話をかけあぐねている高校生の僕が、今もいることを。


今では、すっかり目にすることが
少なくなった電話ボックス

<駐および引用資料>
※1 NHKスペシャル:平成28年3月10日放映
※2 「風の電話」-Wikipedia