編集人:新井高子Webエッセイ


7月のエッセイ


  • 夜の河が運ぶもの

北野健治

 以前にも書いたが、鹿児島市に贔屓にしている映画館がある。「マルヤ・ガーデンズシネマ」。ミニシアター系で地方では珍しく良質でマイナーな映画を上映している。だからいつも鹿児島に上がるときには、上映スケジュールをチェックしている。最近は、過去の名画もかけるようになった。オンタイムで見られなかった若い人にとっても、いいことだと思っている。
 この7月の初旬に鹿児島に出張した。僕のスケジュール的に、今回は訪れる余裕がなかった。が、懐かしい映画がかかっていた。『ジプシーのとき(デジタル・リマスター版)』(監督・撮影:エミール・クストリッツァ、1989年/イギリス・イタリア・ユーゴスラヴィア)。
 僕がクストリッツァに初めて触れた作品。これ以前に、『パパは、出張中!』(1985年)で評判をとっていたのだが、それには気づかないまま、この作品に出合った。ロマをモチーフに、主人公の青年の成長を通しながら、ヨーロッパを、ひいては世界を描いている内容・ボリュームともに大作。
 その肌触りは、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』に似た魔術的リアリズムの作品だった。映画の中で特に印象に残っているのは、河のシーン。スクリーン全体に広がる河の両端におびただしい松明がともり、その真ん中を主人公が乗ったボートがスクリーンの奥から手前に向かって流れてくる。まさに映画! というシーンだった。
 出張先に向かうバスに乗る前、目にした上映ポスターをきっかけに、そんな感慨にふけっていた。初めての路線を走るバスの車窓の外を流れる風景を眺めながら、これも大地を流れるボートのようかもとも思いつつ。ふと、通路を挟んだ向かいの車窓の景色も気になり、何気なくそちらを向いた。そこに、心に引っかかる20代の女性がいた。
 長い髪のスレンダーで、Tシャツにジーンズの軽やかな雰囲気の女性。どこかで見たことがある。僕は記憶を手繰り始める。いくつかのバス停に止まったあと、彼女は降りた。そのとき、やっと思い出した。彼女が、大阪時代に一緒に芝居を見に行った、ある友だちに似ていたことを。


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 新入社員として赴任した大阪時代。今、思えば、時代にも人にも恵まれた。まだバブルが終わる前で世の中が浮かれていて、遊ぶことが当たり前だったころ。新入社員ながら東京から大阪への赴任で慣れない環境と、周りとは群れないクールな上司のマッチングに、僕は緊張の社会生活をスタートした。
 そんな僕を思いやって、コンビを組んでしばらくしたある晩、上司が二人だけで飲みに連れて行ってくれた。あまり酒に強くない上司が、顔を赤くしながらいろいろと話しかけてくれた。どんなことを話したのか。ひとつのことを除いて、何も覚えていない。それは、こんなことだ。
「仕事が終わった後も、仕事のことしか話せないような人間にだけはなるな」
 僕は、その言葉をいいことに、1ヵ月後に上演される芝居を、その日の仕事を勤務時間内に終わらせたら、周囲に気を遣うことなく観に行ってもいいかと尋ねていた。上司は思わず苦笑しながら、OKしてくれた。当時は、大阪でも小劇団の芝居が盛んだった。地元の劇団もあれば、東京からのものも含めて。思い出しても、よくあれだけ観に行けたなあと感心するぐらい。
 バーの愉しみを教えてもらったのも、大阪時代の別の上司だった。勤め始めて1年も経たないうちに、独りでバーに通うようになっていた。定番の店は、なんばの御堂筋沿いの一角にある地下の店。昨年、久しぶりに大阪に訪れたとき、その店のそばを通り過ぎてみた。店はあったけど、違う店になっていた。
 当時のその店には、繁華街に近い場所柄もあって、いろんな職種のさまざまな年齢層の人が訪れた。そこでも僕はいろんなことを教えてもらい、学び、一緒に遊んだ。芝居を一緒に観に行った彼女も、常連のひとり。彼女は、広告代理店に勤めていて、仕事柄興味の対象が広く、元気な娘だった。さばけた感じで振る舞っていたので、異性というよりも同世代の“友だち”として接していた。
 あるとき、僕が芝居好きだという話が出た。「観たことがない」と彼女は興味を示した。一度、連れて行って欲しい。そんな会話があった。そのことをずっと気にかけていた。しばらくして、僕が好きな東京の劇団が大阪で公演することになった。劇団の名は「新宿梁山泊」。
 その頃の新宿梁山泊は、劇団の座付き作者の鄭義信の作品を上演していた。今はどうなのか分からないのだけど、その当時は、主催者の金守珍が唐十郎の作品を気に入っていたこともあってか、芝居のラストの、唐ばりのテント崩しによるスペクタクルなシーンが呼び物の一つだった。それは、現実の世界を異化させ、昇華させながら、一気にリアルな別世界に観客を飛び越えさせていく装置だった。
 二人で観に行った演目を、ネットで確認した。1990年の「人魚伝説」(作・鄭義信)。なぜ特定できるかと言えば、公演場所に特徴があったから。堂島川と土佐堀川にはさまれた東西に長い中州・中之島。その中にあった中之島公園野外音楽堂の横に建てられた特設テントが会場だった。
 当日は、若かったこともあり、入場整理券を求めて早くから並んだ。とりとめのない会話をしながら、整理券の配布を待っていた。突然、河の方から声が聞こえる。並んでいたみんなが一斉に声の方を見る。そこには筏に乗った出演者が。みんなのエールを受けながら、ゆっくりと彼は河を遡行していった。
 芝居は、いつものようにクライマックスのテント崩しで終わった。夜の闇が一気に広がる。と、ライトアップされた河が浮かび上がる。そこには筏に乗った役者たちが。大きな物語を載せつつ、一場の夢のように夜の河の流れに静かに飲み込まれていく。それを目にした観客は、それぞれの胸に余韻を残しながら帰路につく。僕たちは、当たり前のように件のバーに向かった。
 芝居のことは話さなかった。話す必要はないと思ったから。いつものようにくだけた会話をしていた。途中から、彼女は初めて家族のことを話し始めた。兄がいること。自分は両親と同居していること。兄と両親がうまくいってないこと。などなど。思いつめたようでもなく、まるで一つひとつを確認するような口調で、でもしっかりと彼女は語った。僕はただ聞いているだけだった。終電の時間が来た。僕たちは、いつものように別れの挨拶をし、自分の家へとそれぞれ向かった。次に会う約束をすることもなく――。


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 昨年、先に書いたようにかつてのバーを確認した後に、当時のマスターが独立して営業している店に寄った。近況も交えながら、常連だったメンバーたちの「今」にも話題は及んだ。他界した人もいる。その後のことを知らない人もいる。彼女のことは、噂も含めて知っていた。結婚をして、昔と変わらず元気に幸せに暮らしているらしい。
 良かった。それが僕の実感。あの日、独りで乗っていた心もとない「筏」に、今、彼女はパートナーとともに乗っている。そして二人で大きな河に漕ぎ出している。ボン・ヴォヤージュ。僕は独り、二人の旅路に乾杯した。


ガラッパ(河童)の伝説が残る種子島の甲女川