編集人:新井高子Webエッセイ


9月のエッセイ


  • アンダルシアの猫

髙野吾朗

 最近、わたしには新たな癖が増えた。しばし黙りこくったまま、自分のこれまでの人生をあれこれと振り返り、その一瞬一瞬の意味や価値をあらためて自問自答しながら、独りただ呆然と時を過ごすという、地味ながら厄介な癖である。もうすぐ五十歳になろうとしているせいかもしれないが、それにしてもあまりにノスタルジックすぎるようで、自分でも嫌になる。ところがふと我に返ると、気づかぬうちにまたその癖に溺れていたりする。もしや認知症の兆しかと疑ってみたことさえあったが、とりあえずはどこも悪くなさそうなので、今ではそんな心配もどこへやら、「あの時、なぜわたしはあんなことをしたのか」「あの経験は今の自分と一体どうつながっているのか」などと、愚にもつかぬ夢想にまたもうつつを抜かす、そんな有様なのである。

 つい先日も、奇妙な夢想にまたもやふいにとらわれてしまい、仕事中であるにもかかわらず、周囲の声さえ全く耳に入らぬほどぼんやりとしてしまった。実はわたしの仕事は英語教師なのだが、授業中、使用している英語テキストの中の一つの英単語をじっと眺めているうちに、学生たちの面前で、思わずこんな自問をひっそりと心の中で始めてしまったのである・・・「この世界には、人知をはるかに超えた存在について神が人に向かって伝えようとする宗教的瞬間があるらしいが、宗教者でもなんでもないこのわたしの過去の人生にも、そんな一瞬がはたしてあったりしたのだろうか」・・・たった数秒のことだったとはいえ、いかにも突然すぎる教師の奇妙な沈黙に、学生たちはさぞや驚いたに違いない。ちなみにわたしがその時じっと見入った英単語とは “REVELATION”(啓示)であった。

 その数秒間にわたしの脳裏を駆け巡った過去の一シーンには、ドラマチックなところなどかけらもなかった。さらに言えば、宗教性などどこにもなさそうな雰囲気だった。舞台は市立図書館のすぐ隣にある喫茶店の片隅。座っているのは若かりし頃の人待ち顔のわたし。その後ろには夫婦らしき外国人のカップルが一組。そしてその向こうには、日本人の親子が一組。客はたったそれだけで、あとは店内で放し飼いにされているらしき真っ黒な一匹の老猫が、整然と並ぶテーブルの脚を縫うかのごとく、淡々と物憂げに歩くのみである。わたしの目の前には淹れたてのコーヒーがひとつ置いてあり、その横には店の名物のモンブランが一皿。あまりにも日常的な光景である。

 その日、わたしは映画を一つ見終えてからその店へ独りでやってきたのだった。見たのはルイス・ブニュエル監督の『アンダルシアの犬』である。「歴史的名作」と聞いて初めて見たのだが、あまりにシュールすぎる内容で、さっぱり理解できぬままだった。心に残ったのはただ一つ、クローズアップされた女性の眼球が意味なく急にナイフで切られるという、あの有名な(あるいは、悪名高き)冒頭のワンシーンのみであった。そのグロテスクさを早く忘れてしまいたくて、気分転換に店に立ち寄ったにすぎぬわたしのその足元で、黒猫がふいに立ち止まる。病的な優雅さでこちらを見上げるその視線は、モンブランを頬張ろうとしているわたしの口元に釘付けとなっている。水のお代わりを入れにきてくれた店主が「こいつももう寿命らしくてね、末期癌なんですよ、末期癌」と言って苦笑する。

 後ろの日本人親子はまだ若そうな母親と小学校低学年らしき男の子で、その子が大声で母親に何やらクイズを出している。

 「あのね、あるところに豚さんと犬さんがいてね、二人で一緒にデパートの食堂に行ってね、豚さんだけがでっかいピザを独りで食べてね、貧乏な犬さんはそれをただ見てただけでね、犬さんが『ねえ豚さん、次においしそうな骨をどこかでみつけたら豚さんにもちゃんと分けてあげるからさ、僕にもひと口そのピザちょうだいよ』って言ったらね、豚さんはもうおなかが痛くなるくらい食べてたのに、犬さんに『ダメだ』って言ってね、『僕がお金払って買ったんだから、これは全部僕のだ』って言ったの。それで食べ終わって二人で外に出たらね、鉄砲を持ってるこわそうな狩人に会ってね、犬さんはうまく逃げれたんだけど、おなかいっぱいの豚さんは早く走れなくてね、鉄砲で撃たれてそのまま死んじゃったの。夜になって犬さんがその場所に戻ったらね、肉がまだたっぷりくっついてる大きな骨がゴミ箱に捨ててあってね、すごくおいしそうだったんで、犬さんはそれを全部食べてとっても幸せになったんだって」

 「それって豚さんの骨だったの?」と尋ねようとする母親を制するようにして、男の子がまた大声を出す。「これって何を言いたいお話なんでしょうか、って先生にこのまえ質問されたんだけど、お母さんだったら、いったいどう答える?」

 もしもそう尋ねられたら、僕ならきっとこう答えるだろうな・・・少々気取った感じでケーキを再び口へと運びながら、わたしは心の中で独りそう呟く。金さえ払えばなんだって完全に私有できる、そんな世の中の日常そのものをいったん根本的に疑ってみる必要がありはしないだろうか・・・世の中の全ての物事は、隣の図書館の本たちのごとく、最終的にはあまねく人々に共有されるべきものばかりなのではあるまいか・・・その犬と豚の寓話は、今の日本社会のありようを暗に皮肉っているのではなかろうか・・・

 ふと見上げると、わたしの隣の空席にはいつの間にかあの老猫が鎮座しており、クリームの付いたこちらの口元を、相変わらずじっと憂鬱げに見つめている。一口食べてみたいらしく、媚びるような声音をかすかに漏らす。外国種の雌猫である。もしも人間であったなら、かなりの美人だったかもしれない。

 美人と言えば、英語で議論中の後ろの外国人女性もかなりの美人である。何をしゃべっているのかと耳を澄ますと、彼女とそのパートナーたる男性の話題はどうやら難民問題らしい。ちょっと振り向いてみると、彼女はテーブルの上に紙を置き、そこに何やら部屋のレイアウトらしき図を丹念に描いている。そうしながら、彼女は相手にこう訴える。「我が家にも、まだ空いているスペースがこんなに残っている」「四人家族一組くらいなら、十分住まわせてあげられそう」・・・すると男性が、彼女をやんわり制しながらこう反論する。「難民の家族と同居するなんて、口で言うほど簡単なことじゃない。一緒に暮らせそうなちゃんとした難民なのかどうか、一体どうやって判定する気だ?おまけに一体、どこから家まで連れてくる?相手の身元とこっちの身元の確かさを同時にきちんと証明しないといけなくなるだろうし、それは間違いなく、途方もないほど面倒くさい作業のはずだ。だからといって、正規のルートを回避して、たとえば路上で難民たちに誰彼かまわず声をかけまくったりしようものなら、ひどい悪党を連れ込んだりすることにもなりかねない」

 わたしは心の中でこの意見を思い切り罵倒する。この社会にはそんな狭量な意見がいまだに満載だ。まことに情けない。こんな自分本位の男なんかと結婚生活を続けるくらいなら、彼女はいっそこの僕と・・・そこまで思ったところで、「すみませんねえ、猫が邪魔をしちゃって」と言いながら店主が近づいてくる。黒猫の目と外国人女性の目がなぜかとてもよく似ているように感じられる。「こいつとはもう長い付き合いでしてね、こいつの癌の苦しみ、できれば代わってやりたいくらいなんですが、獣医に連れてっても治療をことごとく嫌がるんですよ。もっと生きたいはずでしょうにねえ」「そうですか、いやあ、お気持ちすごくわかりますよ、なんとかして痛みを代わってあげたいと思う、そのお気持ち・・・」

 ここからわたしの記憶は急に不鮮明になる。黒猫がすっとモンブランに近づき、その一角をしゃにむに頬張ろうとする。まるでピザを欲しがる貧しい犬のように。すると、フォークを持っていたわたしの右手が、猫の顔めがけて思い切り放たれる。「僕がお金払って買ったんだから、これは全部僕のだ」。猫の目がナイフのように魅惑的に光る。まるで鉄砲を持った狩人の目のように。豚のような自分の鼻息に、我ながら驚くわたし・・・そんな事実が本当にわたしの人生の一コマにあったのかどうか、いま思うとまことに疑わしい。どこかで捏造されたもののようにさえ思われる。しかし・・・フォークが顔に刺さったままの状態でテーブルから跳ね飛ばされるまさにその瞬間、猫の目の光がわたしの眼球の表面を刃のように切り裂く。まるで映画の一コマのように。

 いや、やはりそんなはずはない。あの時、わたしはあの癌の猫を、できうる限りやさしくモンブランから遠ざけたはずだ。フォークなど突き刺したりするはずがない。それが証拠に、店主も他の客たちも、いっさい大騒ぎなどしなかったではないか・・・それなのに一体どうして・・・フォークをぐっと握りしめ、何かを思い切り突いたかのごときあの恐ろしい感覚が、今なおこの掌にじんわりと残っているのは、一体なぜなのだろうか。わたしがもはやわたし自身の主人ではありえないかのような、どうにも奇妙な感覚。とてつもなく軽薄な何者かがわたしの過去を勝手に書き換え、わたしの知らぬ別のわたしにいきなり重罪を背負わせたかのような、喜劇とも悲劇とも呼びかねる虚ろな気分。これも「啓示」なのか?

 そこでわたしはようやく我に返った。いま自分が授業中であった事実に少々たじろぎながら、開きっぱなしにしていた自分の英語テキストの上に慌てて再び目を落とす。不思議そうにわたしの姿を見つめる学生たち全員の視線が、あえて見返さなくとも痛いほど肌に感じられた。ちなみにその日、授業で読んでいたテキスト中の英文エッセイは、偶然にも世界の難民問題に関する内容であった。

 その後、授業をいつも通り淡々と進めながら、わたしは頭の片隅でこんなことをぼんやりと考えていた。もしもわたしが、市立図書館の隅っこに置かれっぱなしのまま、誰にも借りられることなく永遠に埃だらけと化している一冊の古書だったとしたら、「誰かわたしを読んで下さい、この中身はあなたのものでもあるのだから」と叫んだりするのだろうか。もしもわたしが、まだかぶりつけそうな肉片をあちこちに付着させているにもかかわらず、ごみ箱に捨てられたままとなっている一本の動物の骨だったとしたら、「誰かわたしをしゃぶって下さい、この肉はあなたの空腹を満たすためにこそあるのだから」などと呟いたりするのだろうか。

 授業終了直前、わたしは学生たちの嘲るような笑顔を見つめ直した。そして再び、テキスト中の“REVELATION”という単語に目を向けた。そこでようやく、それが見間違いだったことに気がついた。“REVELATION”かと思ったその単語は、実は“REVOCATION”(取り消し)だったのである。