編集人:新井高子Webエッセイ


10月のエッセイ


  • 「わくわくな言葉たち」だより(4) ――大船渡の詩人による震災詩

新井高子

1. 大船渡と東日本大震災


 大船渡市は、日本の東北地方、岩手県南東部に位置する。太平洋に面した三陸海岸、すなわち山と海が隣接するリアス式海岸の代表地の一つだ。岩手県最大の港、大船渡港を抱えたそこは、漁業や水産加工業、セメント工業などが発達している。また、穴通磯(あなとおしいそ)や碁石浜(ごいしはま)を抱える碁石海岸は、美しい景勝地として知られている。人口は、約四万人。
 陸前高田市(りくぜんたかたし)と住田町(すみたちょう)を含めて、気仙地方とも呼ばれる。大洞貝塚(おおほらかいづか)や蛸ノ浦貝塚(たこのうらかいづか)をはじめとする縄文遺跡によって、古い時代から人々が暮らしていた足跡を辿ることができる地域。鹿踊り(ししおどり)や虎舞(とらまい)、剣舞(けんばい)など、豊かな伝統芸能が受け継がれてきたが、地域性の高い、独特な土地ことばは「ケセン語」と呼ばれ、大船渡在住の医師、山浦玄嗣(やまうら・はるつぐ)さんの尽力などによって、一つの自立した言語としての確立を目指そうとする気運もある。
 二〇一一年三月一一日の東日本大震災では、甚大な被害を受けた。大船渡市役所のホームページによると、市内の大船渡町では震度六弱の揺れが記録され、大船渡港を襲った津波の高さは約一〇メートル。三陸町綾里(さんりくちょう・りょうり)では約二三メートルに至った。市の中心部の商業地帯が壊滅したほか、各地に深刻な被害が及んだ。
 二〇一六年三月現在、東日本大震災による死者の総計は一五八九四人、行方不明者は二五六一人、合わせると約二万人にのぼる。その内、大船渡市では、死者は三四〇人、行方不明者は七九人、全壊した住宅は二七九一世帯、半壊なども含めると、五五八一世帯が建物の被害を受けた。わたしは、震災から一ヶ月半くらいの頃、大船渡市にほど近い宮城県気仙沼市を訪れたことがある。被災した住宅の片付けを手伝ったが、その一帯の破壊は、いまも筆舌に尽くしがたい。
 あれから五年経ち、瓦礫の撤去、更地化、さらに盛り土や大手資本による商業施設の建設などが行なわれている。復興住宅などが建てられ、仮設住宅からの転居も進んでいるが、岩手県復興局生活支援課の資料によると、二〇一六年三月現在でも、大船渡では七八一戸、一六九一人が仮設住宅で暮らしていると言う。
 わたしが大船渡を初めて訪れたのは、震災から三年半余り経った二〇一四年一一月のこと。同県北上市にある日本現代詩歌文学館との共同企画によって、詩のあそび「わくわくな言葉たち ――大船渡の声」というプロジェクトを立ち上げたことがきっかけだった。このプロジェクトの主な内容は、仮設住宅の集会室などを巡回し、地元の皆さんの協力を得て、石川啄木(一八八六〜一九一二年)の短歌を、大船渡の土地ことば、すなわち「ケセン語」に翻訳するもの。啄木は、日本文学を代表する優れた歌人であると同時に、岩手の郷土歌人でもあるが、その詩歌は近代日本語、あるいは国民語と言ってもいい「ニホン語」で書かれた。そこで、仮設住宅に住む皆さん、その近隣に住む皆さんの知恵をお借りし、地元の「ケセン語」に翻すことによって、このプロジェクトは、東北独自のことばの魅力を再発見し、さらに広くアピールする狙いがある。現在、「わくわくな言葉たち」は七回開催し、約七〇首のケセン語訳が手もとにある。さらに集め、ゆくゆくは単行本化する夢を持っている。
 訪れるたび、町には変化を感じる。被災直後から仮修繕で使ってきた中心部のホテルが、最近、つぎつぎと新築に建て替えられている。その一方で、大規模すぎる堤防の建設などに対して非難の声も高く、自然と人間、海と人の関係を問う議論が続いている。

2. 大船渡の詩人たちによる震災詩

 (1)大船渡詩の会


 このプロジェクトがきっかけで、大船渡に住む詩人たちと知り合えたことも、わたしにとって収穫だ。ビールを飲みながら、お茶っこ(ケセン語で「おやつ」)を楽しみながら、車に乗せてもらいながら、震災のことだけでなく、お互いの家族やしごと、じぶんの作品、気仙の文化や習慣など、おしゃべりする。いまでは、「わくわくな言葉たち」の強力な応援者だ。意識の何割かは、彼らに会いたくて出掛けている。プロジェクトを通して出会った作品に限られるけれども、本稿では大船渡で書かれた震災の詩を紹介したい。
 あらためて実感するのは、「日本は広い」ということ。当地で書かれたこれらの作品は、東京をはじめとするその他の地域では、ほとんど知られていないだろう。日本では震災と詩が話題や議論になり、雑誌や文学館で東北の詩人が取り上げられたこともあった。だが、わたし自身が実感として「出会い」を経験したのはじぶんで訪れてこそ……。
 プロジェクトの第一回目の会場は、瓦礫を使った手造りの震災資料館「潮目(しおめ)」が目を引く三陸町越喜来(さんりくちょう・おきらい)。その山間にある杉下仮設(すぎしたかせつ)での催しのあと、集会室でCDプレーヤーの片付けをしていると、「読んでみてください」と冊子を差し出してくれる方があった。それは参加者の一人、野村美保(のむら・みほ)さんで、冊子の名は『3.11の詩人たち ――こころの軌跡――』。発行人は「大船渡詩の会(おおふなとしのかい)」とある。

大船渡の詩の会『3.11の詩人たち』

小さな白い水仙を
赤い南天の実にそえて活ける

部屋が暖かくなってくると
ほどけるように
香りが広がってくる

水仙は
地中海沿岸が原産国という
シルクロードを旅して
東アジアに渡って
日本の浜辺に
たどり着いたのだろうか

三、一一
あの未曾有の災害にも耐え抜いて
厳寒の空の下
緑の葉を凛と伸ばし
可憐な白い花びらの中に
金の盃を抱き

その盃に
陽光が満ちるように
輝く幸せに
溢れるときが
必ずやって来るだろう
               (野村美保「水仙」)


 不意を突かれた。プロジェクト参加者の中に詩の書き手があるとは思ってもみなかったわたしだった。花びらが抱く美しい盃が印象的な詩。その輝くしずくにピシャッと眼を洗われた気がした。

あんだー
生きてたがぁー

熱い抱擁で涙する

家も無(ね)エ 部落も無エ
体一つだ なんにも無エ

あんだー
パンツと靴下けらい
お握り一つ パン一つ
有難ァぐ食ってる
この歳で一から出直しだぁ

うん、うん
うん

冷たい手を握りしめて

あんだばかりで無エ
命あったべ
命あったんだから
頑張っぺえ

なぁ! なぁ!
なあ!
               (金野幸恵「生きてたがぁ?」)

*けらい=頂戴


 熱い血が通ったことば。震災直後の三陸沿岸で、人々の挨拶は「あんだー/生きてたがぁー」。行間には、それができなくなった二万人の影がある。「パンツと靴下けらい」、強烈なことばに出くわしたと思った。身一つで駆け出した人の存在がたった一言に凝縮されている。
 作者、金野幸恵(きんの・ゆきえ)さんは、カトリック教会による詩の公募に応じて、「神さま」と題した次のような詩も書いている。

津波の時 おらの命助けてくれて有難う
放心状態の空っぽの命
これからなじょすればいいんだ
砂浜におかれた蟻んこのようだ
右も左も東も西も何もわかんねぇ
親戚の人は四人死んだ
おらなじょすればいいんだ
教えてけろ
息吐くたび
助けて助けてと無言の声が鼻から出て行く
神様
おらに何しろといってるんだ
わかんねぇ わかんねぇ
もっとぎっちり側にくっついてけろ
ぎっちりくっついて教えてけろ
せっかくもらった命だもの
大事にすっから教えてけろ

大事にすっから教えてけろ
               (金野幸恵「神さま」
                「祈りの募集」への応募作品)

* なじょすれば=どうすれば、ぎっちり=しっかり、わらす=子ども


 こちらもケセン語が生きている。
 鼻から出ていくじぶんの吐息に宿るのは、助けを求める死者たちの悲鳴。その無言の声を聞きとりながら、何をすればいいのか困惑するこの詩の語り手。まるで、死霊にさらわれそうなじぶんを引き留めようとするかのように、もっと寄り添ってください、と神に懇願しつつ。
 死者たちは生き残った者のからだの奥底を彷徨っている、と本作は教えている。死者は生者のからだの内側にいる。被災地では、両者はまさしく「肉迫」している。
 二回目の催しを控え、手紙とともにそのチラシを「大船渡詩の会」代表、簡智恵子(かん・ちえこ)さんに届けたところ、会場の沢川仮設(さわがわかせつ)に来てくださり、冊子の編集を担当した中村祥子(なかむら・さちこ)さんを紹介してくださった。

 (2)中村祥子さん、富谷英雄さんとの出会い


 中村祥子さん、愛称サッちゃんとわたしは同世代。出会って以来、出掛けるたびにほぼ毎回、彼女に会っている。早く結婚し、三人の子どもを育てた彼女にはもう孫もいて、世間を冷静に見据えようとする眼差しには、都会の輩にはない風格を感じる。
 『3.11の詩人たち』に作品を執筆するに当たって、詩の会の会員たちは、死者の尊厳を守る方針で一致していたと中村さんは言う。瓦礫の山は、じつは残酷なる遺体の山でもあったが、それは身内や友人や隣人、すべからく同じ地元の人間たち……。その死を汚さないことだけは、それぞれが胸に刻んでいた、と。書くことと晒すことの痛切な摩擦を経て、この冊子は出版されたに違いない。
 牡蠣産地として有名な大船渡市赤崎町(あかさきちょう)で、舅、姑とともに養殖業をしていた中村さんは、その海を「畑」と呼ぶが、津波で畑が流され、以来、舅の判断で牡蠣のしごとは止めたと言う。あの日は、入院中の実父が臨終を迎えようとするただ中であったと言う。

震災のさなか
ようやく長い夜が明け
父は旅立った
選ぶことも
選ばないこともできずに

ひとり残された私は
混乱と疲労の病室で
息を殺していた

慰安室は
次々と運ばれてくる犠牲者のためにあり
止まったままのエレベーター
トリアージを待つ行列
避難者で溢れるロビー
電話も車も使えない

一時間で戻ると約束して
その変わり果てた町を
いくつもの悲しみの中を
無言で歩く

海と陸の境目に残った
地震で崩れた部屋に
薄い布団を敷き
真新しいシーツで包み
写真立てを捜して
約束の時間はとっくに過ぎていて
だらだらと続く坂道を上り
町を見下ろす病院の
五階の奥の
つめたい父の頬に触れて

いつになるか分らない
という死亡診断書のために
薄暗い階段を下りて
また上がっては下りて
昨日と変わらないはずの
外界の眩しさに戸惑い

思えば
誰もがみな喉がからからで
遺族の悲嘆も
空腹に泣く幼子たちも
自然あいての戦場の
膨れ上がる雑踏に紛れてゆく

わたしはまだ
取り残された死の傍らにいる
               (中村祥子「ある死の傍らで」)


 つぎつぎに運ばれる津波犠牲者の脇で、死亡診断書も下りないまま、病死した父親の冷たさが増していく。当事者でなければ書けない視点だろう。硬質なことばで突き放しつつ、じぶんと町の悲痛に向き合えばこそ、時間の重みを伝える。乱れた部屋の諸々をどうにか押しのけて、死者のために敷いた布団。シーツの新しさが胸に残る。
 水道の出ない日々。ある日の電子メールで中村さんは、あのとき喉が渇いていた皆んなは、雨水を貯めて喜んで飲んだ、報道関係の車は見かけてもラジオからは避難情報、安否情報ばかりで、原発事故も知らなかったよ、と……。「思えば/誰もがみな喉がからからで」の詩行にはそんな背景もある。

『立ち上がる三陸への応援歌 第5集』

更地の街に降る雪のように
音もなく
冷たく
ただ白く寄り添っていた
あなたを悼んで

暗黒の街を
最初に照らしたのは
信号機だった
まじめに
明るく
馬鹿正直がいいと
声が聞こえた(後略)

               (中村祥子「明日の種」より。
               『立ち上がる三陸への応援歌』所収)


 停電はもちろん、あらゆる電灯が壊れた大船渡中心部で続いた真っ暗な夜。最初に灯った「街の灯」は、信号機……。「まじめに/明るく/馬鹿正直がいいと/声が聞こえた」。その声はどこからやって来たのだろうか。この含蓄、あるいは皮肉の闇は深い。
 じつは中村さんは小説も児童文学も書く。私的な体験だけでなく、取材や資料から物語を構築することのできる、実力のある書き手だ。岩手発の優れた文芸誌『北の文学』第六六号に掲載された小説「なめとこ山の熊と松吉」では、マタギを鮮やかに緻密に描き、その読みごたえに唸った。突然訪れた大船渡で、サッちゃんのような書き手に巡り合えたのはわたしの幸運だ。
 「大船渡詩の会」からもう一人、富谷英雄(とみや・ひでお)さん、愛称ヒデオさんを紹介したい。地元の新聞「東海新報(とうかいしんぽう)」の記者を経て、文筆業を営んでいた富谷さん。そのエッセイは日本エッセイスト・クラブ編『ネクタイと江戸前』にも収録されているが、津波によって、大船渡港の近くにあった自宅や家作を失った。あらゆる人の生活が変化しただろうが、ヒデオさんは激変の一人に違いない。盛町(さかりちょう)の仮設住宅を住まいにしながら文筆を続けているが、瓦礫の撤去作業、いまは老人保健施設の夜勤によって収入を得ていると言う。

津波で流された自宅跡
初めて見た時
不思議と涙は出なかった
両親の位牌さえ持ち出せず
かろうじて助かった命
でも亡き両親が救ってくれたと思う
お盆の墓参りで不思議な現象を目撃した
以前の地震で少しずれていた墓石が
大地震で元通りになっていたのだ
環境が変わると生き方も変わる
避難先を親戚宅からカメリアホールへ移して
避難所で多くの人たちと知り合えた喜び
盛小学校の仮設住宅に決まり
引越し前夜は最後の避難者になった
たった一人で大広間に泊まった心細さ
大きく変わった人生観
がれき撤去の仕事に就いて
夏の暑さにも冬の寒さにも耐えながら
ペンよりも重いものを持ったことがない私が
スコップを手に働いている
甥や姪たちにとって私はヒーローなのだ(中略)
これ以上のどん底はないから
後は希望を持って前へ進むだけなのだ(後略)
               (富谷英雄「明日に向かって」より)


 先日、夕食をともにした中華料理屋では、「両手に花なんて、何十年ぶりだろう」と、サッちゃんとわたしを持ち上げた心優しいヒデオさん。「ちょっとドライが入ったフラワーで、スイマセン」とわたしたちは頭を掻いた。二回目の「わくわくな言葉たち」に参加後、「東海新報」のコラムに、富谷さんはこれを取り上げたエッセイを書いてくださった。その晩も、いっしょにビールを飲みながら「会のあと、居残った人たちが面白かったと言ってたよ」と励ましてくれた。が、ふと話題が変わったとき、微笑みは全くそのままで「いやぁ、わたしも鬱病の診断を受けたことがありますよ」。
 富谷さんが味わった「どん底」、その一語が指し示す中身を、わたしは十分に推し量ることができないだろう……。じつは、最初に『3.11の詩人たち』を読んだとき、「希望」「笑顔」「頑張る」等のことばで詩行をまとめなければ、いっそう面白くなるのではと思った。わたしはむやみに凝り性な書き手なので……。だが、このように執筆者と知り合い、旅人としてであれ、大船渡に少しずつ接近し始めると、その語の含意に、むしろこちらが付いていっていなかった……と感じる。富谷さんが記した「希望」には、じつは憂鬱も投げやりも捨て鉢も含まれている。限りなく「絶望」だからこそ、敢えて反転した語を記した機微、巻き返しを刻まずにはいられない心根が、わずかだが、いまは察される。

 (3)金野孝子さんとの出会い


 中村さんの紹介で知り合った金野孝子(きんの・たかこ)さんは、大船渡にあるもう一つの詩のグループ「あかね詩の会」に属し、去年八月には『山吹(やまぶき)』という詩集を私家版で出版。「わくわくな言葉たち」のケセン語訳に参加してくださったときの溌剌とした声の調子から、七十才代とばかり思っていたが、詩集の略歴を見ると一九三二年生まれ。
 金野さんは、いわば「バイリンガル詩人」である。赤崎町字跡浜(あかさきちょう・あざ・あとはま)で牡蠣養殖を先駆けた父、その早逝のために針仕事等で子どもを養った母のもとに生まれた彼女は、言わずもがな、ケセン語の達人。友人たちと親密に話しはじめると、わたしの方はチンプンカンプン。一方で、赤崎保育園の保母を三十年近くつとめた彼女は、子どもたちへの読み聞かせもあってか、読書経験が豊かで短歌も嗜む。以下、『山吹』より引用する。

金野孝子詩集『山吹』

戦中戦後の食料難の時代
母は畑を耕した
庭先に南瓜
丘の畑にはさつまいも 馬鈴薯 瓜
母は農家に生まれたが
畑仕事には慣れていなかった
 〈肥やし いっぺぁしねぁば
 いい作ぁ出ねぁがら〉

母は私を相手に肥桶をかつぎ
坂道を畑へと往復した
背の高い母と父親似の小さい私
桶の中で揺れだす肥
肩の痛さ 惨めさ 恥ずかしさ
なぜか笑ってしまった
後ろから母の大声
「なにぁ おがし あるげ」(後略)
               (金野孝子「畑への坂道」より)


 わたしが子どもの頃も、祖母の実家の農家を訪ねると、下肥の臭いがしていたっけ。肥桶の天秤棒を母親と担ぐ少女の金野さん。桶の揺らぎが、おそらくその心に波及したに違いない。「肩の痛さ 惨めさ 恥ずかしさ/なぜか笑ってしまった」。いや、その惨めさを笑いたくなる女の子、笑ったことを末永く覚えていられる人だったからこそ、金野さんは創作を始めたのだろう。土着にいながら、そこを飛び出したいエネルギーも抱えた人であったのだろう。
 つい先日の「わくわくな言葉たち」の後には、仮設住宅から県営住宅に越したばかりの金野さんのご友人、岩渕綾子(いわぶち・あやこ)さん宅で、わたしもいっしょに昼ご飯をご馳走になった。昔は苦労して薪で炊いたんだよ、と頬を膨らして竹筒を吹く真似をしながら昔話に花が咲く。そのとき、嫁に行った当時を思い出した金野さんが、高田(陸前高田市)に、よそのどこかから合唱団が来たとき、無性に聞きたくて、幼子を実家の母に預けて飛んでいったことがある、と言った。どうしてそこまでして聞きたかったのか、自分でもわからない、とも……。彼女の「バイリンガル」は、単にケセン語とニホン語が両方使えるというだけでなく、自分自身の葛藤とともに、両者を反発させてもきたのではないだろうか。
 ケセン語でも詩を書く彼女が、震災を綴った一篇。

なんだべ
がれぎの中さ
黄色い花っこァ咲(せ)ァでだ
なんと
水仙の花っこだがァ
こんなせまこい間っこがら
ゆぐ顔(つさ)っこだしたなァ

あの三月の大津波ァ
平和な暮らしばさらってすまった
それがらずものァ
なにもかも止まった
がれぎの山ァ
言葉も涙も止めだ
空では雪ばりふらせで
季節のめぐりまで止まったど思った

そしたれば なんと
小(ち)せァ手っこさ春のせで
だまァって動いでだものァ
いだったんだねァ
泥水で固まった土ば
押しあげて 押しあげて
花っこ咲がせだ水仙

おらの
眼(まなぐ)ァひかってきた
胸でば大ぎくひろがって
がれぎの果でまで叫(さが)びだがったァ
  おらァ春みだァ
  しっかどみだァ
               (金野孝子「春ァ見(め)えだ日」)

* せまこい=狭い、ゆぐ=よく、ばり=ばかり、みだァ=見た、しっかど=しっかりと


 「なんだべ」という一行が、しゃがんで覗き込もうとする姿勢を伝える。そこにあったのは、瓦礫に埋まりそうになりながらも、ひるまず咲いた水仙の花。野村さんの詩も思い浮かべつつ、震災後の大船渡にまず春を伝えたのは、光のようなこの黄色……。
 啄木短歌の大船渡弁訳を聞いていてもつくづく思うが、ケセン語は濁音はもちろんだが、余韻もとても豊か。「黄色い花っこァ咲ァでだ」「だまァって動いでだものァ」など、この小さい「ァ」の中に複雑な気持ちを宿す。行間だけでなく、字間にも言葉が響いていく空間があり、その隙き間が書き手の詠嘆を吸い込むと同時に、読み手に向かっては、ゆっくり、じんわり吐き出していく。それによって、詩の文字面も響きも、まるで陽炎のように微妙に揺らめく。
 「おらァ春みだァ/しっかどみだァ」、打ち震えながら見つめ続ける、濃厚な視線がここにある。まるでほとんど全篇がオノマトペであるかのように、響きと意味が一体になった美しい詩。

展望台から海を臨む(2015.6.7)

 駆け足になったが、震災の詩を中心に、じぶんが出会った大船渡の詩人たちによる作品を紹介した。冊子や本を手に取って、ぜひ続きをご覧ください。わたしも執筆した一人だが、東京を中心とする潮流が描いてきた震災詩とは異なる渦が湧いているように思う。ここでは、「修辞」の前に「現実」がある。だが、いわゆるリアリズムとも違っている。「real」というより、「rare」あるいは「raw」。もっと ナマな ・・・ ことばたち。啄木のケセン語訳プロジェクトも含めて、そこで何を発見するか、どう吸収するか、じつは試されているのだと思う。
 大船渡の海、リアス式海岸の切り立った景色は美しい。晴れた日にそれを展望するなら、この世のものと思えないほどだ。気仙沼に住む船大工の棟梁、岩渕文雄(いわぶち・ふみお)さんは、津波によって自宅と仕事場を失ったにも関わらず、訪れたわたしに「海の心を持て」と言った。


参考文献
・ 『3.11の詩人たち ――こころの軌跡――』(大船渡詩の会発行、イー・ピックス出版、二〇一二年一月)
  注文等は、電話0192-26-3334(イー・ピックス出版)
・ 金野孝子『詩集 山吹』(私家版、岩手開発産業株式会社印刷、二〇一五年八月)
・ 『立ち上がる三陸への応援歌 第五集』(「三陸を詠もう」実行委員会発行、二〇一四年二月)
・ 『北の文学』第六六号(岩手日報社、二〇一三年五月)
・ 日本エッセイスト・クラブ編『ネクタイと江戸前 ――07年版ベスト・エッセイ集――』(文藝春秋、二〇〇七年八月)
・ 片山和一良(かたやま・わいちりょう)『潮目 ――フシギな震災資料館』(ポット出版、二〇一四年九月)
・ INAX BOOKLET『唐桑・海と森の大工』(INAX出版、二〇〇四年九月)

(初出:「大船渡ノート」(「ミて」134号)、改稿改題)