編集人:新井高子Webエッセイ


12月のエッセイ

  • 詩は唄う(2)――詩とリフレイン・その2 

前田君江

前回のエッセイ、「詩は唄う(1)――詩とリフレイン」では、詩の中でリフレインがもつ4つの働きについてお話しました。ひとつめは、繰り返しのリズム。2つ目は、円環構造。3つ目は、リフレインの「唄/謡」の側面とも呼べる音の具現性。そして、4つ目は、リフレインがもちうる「声」の可能性。今回は、さらに、別の視点も交え、リフレインについて考えてみたいと思います。

(1)

そもそもリフレインには、どのような形があるのでしょうか。
イランの詩人、アフマド・シャームルー(1925-2000)の作品を見ると、リフレインのパターンを、大きく三つに分けることができます。まずは、完全型リフレイン。各詩連の終わりに、全く同じ詩句が繰り返される形です。たとえば、次に引用する詩「愛の詩」のように。

 

    「愛している」と告げる者は
    声を失った
    悲しき反逆者

    ああ、愛に
    語らう舌があったならば!


    おまえの瞳には
    千の歓喜のたてがみが揺れる。
    そして 私の喉には
    物言わぬ 千のカナリアが。

    ああ、愛に
    語らう舌があったならば!


    (後略)

詩のテキスト部分(ここでは、「リフレイン以外の部分」の意味でこの言葉を用います)は、思いのままに展開していきますが、各詩連末は、「ああ、愛に/ 語らう舌があったなら!」のリフレインに還っていきます。リフレイン部に注目するならば、シンメトリーな円環構造の形です。

(2)

第二のパターンは、変化型リフレイン。各詩連の終わりのリフレインは、いずれも同一文型ですが、それぞれ少しずつ違っている箇所があります。たとえば、前回のエッセイでも引用した「内なる寒さ」に見られる形です。

――――――――
―――――――――
――――――
    ああ 愛よ ああ 愛よ
    お前の青い顔が見えない

――――――――
―――――――――
――――――
    ああ 愛よ ああ 愛よ
    お前の紅い顔が見えない

――――――――
―――――――――
――――――
    ああ 愛よ ああ 愛よ
    お前の慣れ親しんだ色が見えない

この詩において、―――で示したテキスト部分で、「わたし」と名乗る語り手は、愛が逃げ場であったり鎮静作用をもたらすものではなく、常に飛翔のエネルギーとなり炎の情熱となりえることを切に望むと語ります。もっとも、その熱望の表現は、詩がすすむにつれて枝葉を切り落とされ、なにか空間的観念のようなもの、さらには、色彩の対照と残像へと形を変えていきます。一方、リフレイン部では、「お前の青い顔が見えない」→「お前の紅い顔が見えない」→「お前の慣れ親しんだ色が見えない」という展開(もしくは「変容」)が見られます。

完全型リフレイン同様、展開したテキスト部は、詩連末でリフレイン部に還っていきます。しかし、変化型リフレインは、シンメトリーな円環構造への期待を、巧みに裏切りつつ、危ういバランスを保ちながら繰り返されるのです。

また、語り手は、テクスト部において、客体化した「愛」の様態について語ります。そして、リフレイン部では、一転して、「愛」に対し「お前」と呼びかけます。この詩では、リフレインの「声」は、あくまで、テクスト部と同じ「わたし」の声なのです。

しかし、「愛」に対して「ああ、愛よ、ああ 愛よ」と呼びかける直接話法と、「お前の青い/紅い顔[慣れ親しんだ色]が見えない」という擬人法のコードは、リフレインの語りをテキスト部の語りとは全く異質なものとして響かせることに成功しています。これによって「愛」は、人間の心によって生み出され所有されるものではなく、自らエネルギーをもつ一個の、しかし、開かれた生命体として浮かび上がって来るのです。

(3)

第三のパターンは、反復リフレインと変容リフレインを併用するもので、いわば、混合リフレインとも呼びうる形です。以下の詩「この行き止まりで」(注1) では、完全型リフレインと、変化型リフレインが二層構造を成しながら交互に用いられます。

奴らはお前の口の匂いを嗅ぐ
お前が「愛している」と言ってはいまいかと
奴らはお前の心の匂いを嗅ぐ
      見たこともない時代が来た、恋人よ。

奴らは愛を
遮断機の傍らで鞭打つ。
      愛を奥の小部屋に隠さねばならぬ。

(3)- ①

各詩連前半部では、「見たこともない時代が来た、恋人よ」の完全型リフレインが、繰り返されます。原文でのより厳密な意味は、「奇妙な時代だ、愛しき者よ」(Rūzegār-e gharībī-st, nāzenīn)。「愛しき者よ」nāzenīnは、原語では、恋人のみならず、家族であれ友人であれ、あらゆる「親しき者」、「愛しき者」に対する「開かれた」呼びかけの言葉です。そのため読み手は、同詩句を、語り手から自分への呼びかけとしても、また、自ら発する呼びかけの言葉としても受け取ることができます。
 この「開かれた」呼びかけは、同詩句が併せ持つ社会的・政治的な示唆において、大きな威力を発揮してきました。以下に引用するのsは、第2詩連~第4詩連の各前半部です。

寒さに凍える曲がりくねったこの行き止まりで
歌と詩をくべ
火を焚きつける。

考えることで危険を冒すな。
      見たこともない時代が来た、恋人よ

***
見よ、肉屋たちが
往来に陣取っている
血みどろの切り株と肉切り包丁を手に。
      見たこともない時代が来た、恋人よ。

***
カナリアの肉が焼かれる
スイセンとジャスミンの火の上で
      見たこともない時代が来た、恋人よ。

この詩が書かれた1979年、イランでは王制が崩壊し、世界でも例を見ないイスラームを奉じる国家体制が樹立されました。 それ以前、同国では、約50年にわたる西欧化政策の下で近代化が強力に推し進められ、世界的なオイル・ブームを追い風に、経済成長を続けてきたのです。
一方では、政治犯らへの厳しい弾圧がありながらも、都市文化が花開き、欧米となんら変わりない華やかなファッションに身を包んだ女性たちが街を闊歩していました。 しかし、1979年のイスラーム革命後は、一転して、イスラーム法学者と呼ばれる宗教者たちが実権を握るにふさわしい国家理念と統治機構が次々と確立され、彼らの宗教理念が社会と人々のあらゆる仕組みを改変していきます。

上に引用した詩は、イスラーム体制樹立から約5カ月のちに詠われたものであり、「見たこともない時代が来た、恋人よ」は、未だ混沌とした政局のなかで姿を現し始めた新体制への深い疑念を象徴的に表したものとして読まれてきました。 そして、30年余を経過した現在においても、拭う去るどころから強まる一方の「奇妙な時代」への疑念と反発と落胆とを示唆するものとして読まれ続けています。 このことは、2005年に在米のイラン人研究者・文学者らが中心となって編纂された現代イラン文学の英訳アンソロジーのタイトルが、同リフレインの英訳『Strange Times, My Dear』と名付けられたことにもよく現われています。

見たこともない時代が来た、恋人よ」の寓喩性を担保しているのは、何より同詩句の原文(Rūzegār-e gharībī-st, nāzenīn)がもつ比類ない音楽性であると言えます。 これには、三つのnとrの呼応、二つのzの呼応、さらに、ペルシア語のなかで言葉の流麗さを担保する長母音ī(3回)、ā(2回)、ū(1回)の反復も含まれています。Rūzegār(時代)、 gharīb(奇妙な)、 nāzenīn(愛しき者)は、まさにこの詩のために選りすぐられた三語なのです。
 さらに、逆説的ではありますが、きわめて音楽的な同詩句が円環構造の中で繰り返し発せられることにより、「見たこともない時代が来た、恋人よ」は、この詩そのものや時代背景に関わるメッセージ性からすら解き放たれ、「唄/謡」の性質を帯びてきます。 すなわち、円環構造の中での反復は、詩句を、音と構成の自己目的性にまで至らせるのです。それこそが、音の身体性とも呼べる、リフレインの「唄/謡」の側面であるといえるでしょう。
 そして、音と構成の自己目的性により、「見たこともない時代が来た、恋人よ」は、詩の語り手からも解き放たれ、いかなる語り手にも属さず、詩の語りの空間の外から発せられる「唄/謡」として響いてくるのです。

(3)- ②

各詩連の後半部の終わりでは、変化型のリフレイン「~を奥の小部屋に隠さねばならぬ」が繰り返されます。

奴らは愛を
遮断機の傍らで鞭打つ。
      愛を 奥の小部屋に隠さねばならぬ。

***
夜更けに扉を叩く者は
灯りを殺しにやって来たのだ。
      光を 奥の小部屋に隠さねばならぬ。

***
奴らは唇に頬笑みを縫い付ける。
そして、口ずさむ歌を。
      喜びを 奥の小部屋に隠さねばならぬ

勝利に酔いしれた悪魔(イブリース)が
我らの追悼に宴に加わった
      神を 奥の小部屋に隠さねばならぬ。

この変化型リフレインは、語りの点で言えば、論理追随型・整理型のリフレインです。「内なる寒さ」の変化型リフレイン「ああ 愛よ、ああ 愛よ/ お前の青い顔[紅い顔][慣れ親しんだ色]が見えない」が、テキスト部の語りの進行とは無関係に展開し、予測不能で不可思議な響きを放っていたのに対し、上記のリフレインは、それぞれのテキスト部を要約する形で変化していきます。
 第一詩連では、「愛」が捕えられ罰せられるという事態に対し、「愛を 奥の小部屋に隠さねばならぬ」の警告のリフレインが流れます。ここで「奥の小部屋」とは、苦肉の訳なのですが、日本語の「奥座敷」や「次の間」にも通じるような、部屋や店舗のさらに奥にあるような小さな部屋や空間のことです。
 第二詩連では、「灯りを殺しに」来る者に対し、「光を 奥の小部屋に隠さねばならぬ」。この詩連の前半部「(奴らは)寒さに凍える曲がりくねったこの行き止まりで/歌と詩をくべ/火を焚きつける」は、まるで焚書坑儒のような光景です。
 また、第三詩連では、原語に従えば、唇に頬笑みと鼻歌を「手術して」縫い付ける輩に対し、「喜びを」(さらに言うなら、「本来の姿の喜びを」)「奥の小部屋に隠さねばならぬ」と告げています。
 同リフレインでも、「見たこともない時代が来た、恋人よ」と同様、子音の呼応と母音の反復から成る音楽性が効果を発揮しています。また、文法的に言えば、「隠さねばならぬ」は非人称の構文です。物事の一般的な可否や禁止事項を述べるのにも用いられますが、ここでは、同詩句の音楽性と相まって、断言的で緊急性の高い警告として響いています。同詩句の音楽性と非人称の構文、さらに、円環構造における反復という三つの要因は、同詩句の語り手の存在をあいまいなものにしています。「~を奥の小部屋に隠さねばならぬ」の言葉に対し、あたかも詩の語りの空間の外から響いてくるかのような錯覚を与えるのです。そして、このあと、詩は、ついにクライマックスを迎えます。

* * *

第四詩連では、「カナリアの肉」が焼かれ、勝利に酔う悪魔(イブリース)が、我らの「追悼の宴」に姿を見せます。そして、最後に流れるのは、次のリフレインです。

勝利に酔いしれた悪魔(イブリース)が
我らの追悼に宴に加わった
      神を 奥の小部屋に隠さねばならぬ。

「悪魔(イブリース)」と「神」とのコントラストは、強烈です。ここまでに繰り返されてきた論理追随型・整理型のリフレインを踏襲しながら、侵すものと護られるべきものとの究極の形を、対照的に具現化させています。そして、「神」すら隠さねばならぬ事態!
 ちょうどこの頃、イランでは、国民投票を経て、「イスラーム共和国」(イスラーム法学者らによる統治体制)の樹立が宣言されました。「神」を持ち出し、権力を掌握していく者たちの存在は、この最後のリフレインに、さらに深い政治的意味を付け加えたのです。


(注1) アフマド・シャームルー「この行き止まりで」は、「この袋小路で」のタイトルで『ミて』に訳出した。のち、鈴木珠里・前田君江ほか訳 『現代イラン詩集』(新・世界現代詩文庫8)土曜美術社出版販売2009にも収録。

「この行き止まりで」

奴らはお前の口の匂いを嗅ぐ
お前が「愛している」と言ってはいまいかと
奴らはお前の心の匂いを嗅ぐ
      見たこともない時代が来た、恋人よ。

奴らは愛を
遮断機の傍らで鞭打つ。
      愛を奥の小部屋に隠さねばならぬ。


寒さに凍える曲がりくねったこの行き止まりで
歌と詩をくべ
火を焚きつける。

考えることで危険を冒すな。
      見たこともない時代が来た、恋人よ。

夜更けに扉を叩く者は
灯りを殺しにやって来たのだ。
光を 奥の小部屋に隠さねばならぬ。


見よ、肉屋たちが
往来に陣取っている
血みどろの切り株と肉切り包丁を手に。
      見たこともない時代が来た、恋人よ。

奴らは唇に頬笑みを縫い付ける。
そして、口ずさむ歌を。
びを 奥の小部屋に隠さねばならぬ。


カナリアの肉が焼かれる
スイセンとジャスミンの火の上で
      見たこともない時代が来た、恋人よ。

勝利に酔いしれた悪魔(イブリース)が
我らの追悼に宴に加わった
      神を 奥の小部屋に隠さねばならぬ。