編集人:新井高子書評


「木浦通信」をよむ―樋口良澄・吉増剛造著『木浦通信』書評

 

(樋口良澄・吉増剛造『木浦通信』矢立出版、2010年)

 

谷川晃一(画家)


樋口良澄・吉増剛造著
『木浦通信』

 吉増剛造氏と樋口良澄氏の共著『木浦通信』を受け取ってパラパラとページをめくった時、「あっ火傷しそうだ」と警戒したほどの繊細な感性の摩擦と過激な冒険の渦を感じた。

 日頃、現代詩から遠くにいる私が吉増氏の作品の破格に驚いたのは、2005年に開かれた加納光於の個展『充ちよ、地の髭』のカタログに挿入されていたオマージュだった。そのオマージュは文章であり、フォントやルビの細かな指定がありながら手書きの原稿のまま印刷され、原稿は割注だらけ、原稿の色は黒、赤、緑それに随所に黄色の色鉛筆で文字が覆われてカラフル。よく見ると魅力ある詩語が綴られているが、非常に読みにくい。校正の赤までが細かく書き込まれた文章になっていて、まるで読むことを拒否しているかのようだ。しかしこの吉増氏の原稿はフレームに入れて眺めていたいと思えるほど絵画に似ていた。(吉増氏は本書に「全行が割注化して行こうとしているらしい文字たちの叛乱も、―――」と記している。)

 本書にはさまざまなモチーフが、往復書簡や対話や思考メモという形で展開されているがいずれも、いま表現を考える時、その根幹にある言葉やイメージとどのように向き合っていくかという問題が浮き彫りにされている。プロの編集者でもあるもう一人の著者・樋口氏は吉増氏の言葉の叛乱に伴走しつつ対話を豊穣な森へと誘って行く。
 対話の中で例えばへテロトピアというフーコーの言葉が出た時、実在するがまったく稀有なものとして大野一雄や土方巽の舞踏の身体、が語られ、彼らの存在を総合する批評、あるいは東北、秋田、函館、キリストの影、ジュゴン、ジャン・ジュネといったインデックスを縫合的に編集した身体にまで話題を開いていく。たしかにヘテロトピアだ。
 かって私が土方巽の公演の裏方をしていたある日のこと、目黒大鳥神社の交差点を渡る一行があった。信号が青になり先頭の土方がわたりはじめた。そのときすぐ後をゆく音楽家の小杉武久が「おっ、歩きましたね!」とつぶやいた。小杉のつぶやきとその意味を即座に理解したのは小杉の後を歩いていた画家の中西夏之である。私は後日、この話を中西から聞いたが、不世出の舞踏家・土方のめったにない無意識のヘテロトピア的歩行に小杉や中西が即座に感応した現場を、追体験することは出来た。

 いま、言葉もイメージもその意味は一様ではなく、多義的に矛盾をも孕みながら複雑に繁茂して、容易に解読、あるいは伝達し難い。またマスメディアによる言葉やイメージの風化や時間による劣化もあれば、政治や経済による意味の変転もあって解読も一筋縄ではいかない。
 樋口氏はユーゴ内戦を「回文」(パリンドローム)的状況として語るクロアチア出身の作家ドゥプラウガ・ウグレシィチを紹介している。回文とは文頭(左)から読んでも文末(右)から読んでも意味が発生する文章のことだが「ウグレシィチは一つの文章、言葉がセルビア語とクロアチア語で読め、そして意味が変わってしまう状況を〈回文〉(パリンドローム)と呼びました。内戦の過程で、あざなえる縄が解き放たれて、文頭(左)と文末(右)から読め、そして意味が反転する回文のように、歴史や思想が反転する様相をそうとらえたのでした。」 このことは今日の表現の状況の難しさを語って象徴的である。

 樋口氏は「図式的にならないためにはその〈思考〉の言葉を創造しなければならないでしょうね、実際の創造の先端にある、生起してくるものを受け止めるということには、現在の言葉では追いつかない。―――」と語る。それを受けて吉増氏は「むしろ向こうから来て出会うというかな。その出会うときのこちらの位置を、凝視していて何かが来たからこうやろうというのではなく、本当に来そうになったときにちょっと引いても来てもらうとかね。創作というのはそうだからね、三編の詩をつくる中で経験されたと思いますけれども。その深まりというか。縁(ふち)というか、見えない海というか、それを基底にしないといけないような気がするなぁ―――」 このやりとりは二人の創作論の核心だ。
 吉増氏の「むしろ向こうから来て出会うというかな。」という言葉は画家である私の感覚に直せば「ノリ」というキーワードになる。絵を描いていて来そうで来ない「ノリ」を待ちつつコーヒーを飲んだり、散歩したり、ときに旅までする。しかし本当にいい「ノリ」の来るときはその「ノリ」に対してさえ無意識になっているときだ。
 また吉増氏が語る「リハーサル」に対する嫌悪というのもよくわかる。「リハーサル」をやると「ノリ」は消えるからだ。私は言語による詩は書かないが、絵による詩の捕獲にはいつも血道をあげている。特に制作に「ノリ」を呼び込むために「フリードローイング」と名づけたデッサンを行なう。デッサンといっても本画のための下絵ではない。それのみの一回性に基づいた制作だ。原理は3つあって、1)オートマティズム。2)インプロビゼーション。3)プリミティズムである。
 1)は身体の中の無意識のダムに沈んでいるイメージや絵画言語を引き出す方法。2)は線や形にデフォルメや発展を促すリズムを与える手段。3)は絵画の初発性、原初性そして一回性に敏感に反応する初々しさを忘れないこと。この原理が活性化していれば「ノリ」は自ずからやってくる。

 ところで本書の書簡や対談を読みながらしきりと搖曵したのはタブララサ(白紙還元)という懐かしい言葉だ。古いけれどまだ十分に鮮度のあるこの言葉は、インスピレーションの森を疾走していく吉増氏よりも、木浦、トリエステ、ブンタウ(ヴェトナム)、シビウ(ルーマニア)、ベオグラード、済州島、川倉、サハリンという磁場をさすらう樋口氏の旅の手記に影の査証のように張り付いていた。

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