編集人:新井高子書評


私たちの「内在地」はどこにあるのか。―渡辺めぐみ詩集『内在地』書評

 

(渡辺めぐみ著『内在地』思潮社、2010年)

 

和合亮一(詩人)


渡辺めぐみ著
『内在地』

 渡辺めぐみの新詩集「内在地」を読み終えて、次の萩原朔太郎の詩をふと思い出した。次の作品は、詩集「青猫」の中の一つの作品である。

ああ俥のはしる轍を透して
ふしぎな ばうばくたる景色を行手にみる
その風光は遠くひらいて
さびしく憂鬱な笛の音を吹き鳴らす
ひとのしのびて耐へがたい情緒である

 この作品は人力車のようなものに乗っている詩人の姿が描かれている。本作品の書かれた前後に〈笛〉のモティーフが数多く登場するのだが、このことがとても気になったのであった。十代の終わり頃、私が最初に触れた詩人とは朔太郎であったが、初めに心に留まったものの一つが〈笛〉の印象である。

 読み終えてからもしきりに〈笛〉は何を示しているのか、と収めることの出来ない読後感をずっと楽しんでいたように記憶する。この詩の読後の不可解さこそが、自分の中にそれから二十数年も詩のことばかりを考えて生きていくという、親しくも狂おしい世界の入り口を開くこととなったのだ。その始まりが私には萩原朔太郎の〈笛〉であった。

 渡辺めぐみの詩と出会ったのは、現代詩手帖の詩誌月評の折のことであった。当時において渡辺は月刊誌に寄稿していたが、毎月のように渡辺の作品に触れて、いつも言い知れない〈笛〉の音を渡辺の作品の内外に聴いてきたのであった。言うなれば、朔太郎に感ずる言葉の露な生理感覚とやはり彼に通ずる強い抒情の交差点のようなものをそこに見て、誘われるかのような無の音色のようなものに、耳を澄ませていたように思う。

谷を見てはいけないとおじはいつも言いました
谷を渡る風の音(ね)を聞き分けて方向舵にするだけでよいのだと
けれどもわたしは谷の深さを測りたがる癖があり
谷底へ降りようとしては足を滑らせ
よく気を失うのでした(「心音」より)

 この「風の音(ね)」とは何だろう。
 ここに書かれてあるような、見てはならない厳しい渓谷が、吹き抜ける風と共に奏でる何かの徴、あるいは兆しのようなもの…。ここに地の鳴き声を求めるかのごとくに疾走した(人力車に乗った客としてだが)朔太郎の耳に響く、高音の息を私は想った。この詩の後半は、このように書かれている。

谷を見てはいけないとおじはいつも言いました
そしてとうとうわたしは谷そのものをわたしの心臓の中に埋めたのです
この胸の高鳴りは
谷を吹く風の音
谷を忘却する風の音
谷で死んだ子どもの生きようとする力
死ななかったわたしのおじを捜す声
それはきっとおじではなくわたしの明日を捜す声
絶対にわたしをあきらめないことを誓う声帯の震え
谷を見てはいけないとおじはいつも言いました( 同 )

 ここには「谷」と「子ども」と「死」と、死ななかった「わたし」などのモティーフが描かれる。禁忌すべき風景と時間とを隠しようがないから〈心臓〉へと埋めてしまおうという、この書きぶりの凄まじさはどうか。風の音、声…。

 ここにあるのは、朔太郎風に言えば「ばうばくたる景色」の息吹ではあるまいか。ここで不意に私には、朔太郎の〈笛の音〉の先は、作品の詩語の「生きようとする力」に静かに向けられていることを感じることができた気がした。

 朔太郎もまた、生きようとしたのである。若い詩人は心身の病苦に悩まされて、むしろその疾患意識を詩に書きつけることによって精神の健康へと向かい続けていく。これらの〈心臓〉の語の登場は彼の「つかれた心臓は夜をよく眠る/私はよく眠る/ふらんねるをきたさびしい心臓の所有者だ」などの詩句を浮かばせる(そもそも「心臓」の使用はドストエフスキーの小説からの影響であるとどこかで読んだことがある)。生と心との交差を託された臓器としてこのように渡辺も苦悩の場面へと晒している。
〈心音〉だけが私たちに残されていくのだ。〈音〉…。

解体音の近くでは
きっと新しいものが生まれている
それは輝き
それは震え
それは純白の愛憐をまとって
空に向かって巣立つだろう
わたしの触れ得ないものかもしれないが
その光によってこの厳かな生の影をなぞることができるなら
それでわたしはよいのだった

 「解体」と「新生」の〈音〉か…。
 私たちは渡辺めぐみの詩を読みながら、言い表せない〈解体〉と〈新生〉の音楽を耳にしている。そこに渡辺の、祈りや願いや時には贖いの気持ちが鮮やかに生まれ出す。これら「新生」への感情を総合する力が、時には深く悲しみを語りながらも、渡辺の詩に確固として息づいている。「きっと新しいものが生まれている」。ならば、ずっと聞こえている「笛」とは、失われた者の魂呼びのためであり、新しい命の〈息吹〉そのものなのかもしれない。

 情報に巻き込まれ、追われながら言葉を獲得していくことにばかりに躍起になっている現代人があるいは現代詩の書き手たちが、大きく忘れてしまっていることが書きつづられている。日本の詩歌の書き手が守ってきた心の系譜をこの詩人は追い続けている。これからも渡辺は遥かなる、内なる風光へと誘われるようにして、詩と心の谷を歩いていくだろう。それを読み手として、まなざしていきたい。