編集人:新井高子書評


新たな恋のうたげ―桑原茂夫詩集『月あかり・挽歌』『ええしやこしや』書評

 

(桑原茂夫著『月あかり・挽歌』書肆山田、2007年)
(桑原茂夫著『ええしやこしや』思潮社、2010年)

 

八木忠栄(詩人)


桑原茂夫著
『月あかり・挽歌』

 桑原さん、いただいた『ええしやこしや』のページを、うたうようにしてくり返し繰っています。繰りながら気持ちが浮き立ってくるのを覚えます。
 この詩集について触れる前に、前の詩集『月あかり・挽歌』(2007年)を、ざっとおさらいするようにしてここで読み返しておく必要がありそうです。両者は無関係ではなく、微妙な変奏を示しながら底通していることは明らかなようです。この一冊は帯文にもある通り、たしかに「旅立ったひと」に対する「レクイエム」です。序詞「いま一度きみを」は十行足らずの短詩ですが、次のような哀切なフレーズで閉じられています。

いのちのあつさやふかさをかんじさせる
ことばを交わすということを
いま一度 たった一度でも

きみと――とおもう

 この「きみ」こそ「旅立ったひと」そのひとであり、あなたにとってかけがえのない素敵な〝相棒〟(敢えてこう呼ばせていただきます)だったあのひとのこと。八編の挽歌には、「きみが語ろうとしている」「きみのことば」「きみの声」「きみがささやき」「きみに会える」「きみのほほえみ」「ふりかえったきみ」「きみのおしゃべり」「きみはここにいる」……「きみ」の存在が全編にたくさん織りこまれています。いや、「きみ」という言葉以外の言葉の裏にも、「きみ」の存在が遠く近くはっきりとゆらめいているのが察知できます。それはありし日の面影として過去形でとどまることなく、再び生きて「ぼく」のなかで呼吸しはじめているように思われます。
 連作詩の最後「挽歌8 ここにいる」は「そういつの間にかきみはぼくになっているのだ――」という独立した一行で終わっています。この一冊のレクイエムには、「死」という言葉がどこにも一度も使われていない。そのことを看過してはならない挽歌の連作です。「旅立ったひと」は最後に「ぼくになって」再び生き返り、「ぼく」と同化し甦生しています。だからこそ、この尽きることない深い悲しみと、それに負けていない救いには、何にも増してしたたかなものが感じられます。この詩集のどこからも「死」という言葉が見出せないということは、作者のこころのなかで、「きみ」は亡くなってはいないというわけでしょう。
 詩集の後半に、第2部として収められたものがたり「カグヤヒメ月に帰る」は、月へ帰るカグヤヒメを見送らなければならない翁や嫗、ミカドたちにとって、カグヤヒメとの別れは月あかりの挽歌そのものなのですね。それは「きみ」の名残り尽きない旅立ちとの合わせ鏡となっているばかりでなく、挽歌八編と連作八編とは交響し合いながら、一冊のフィールドの奥行き――その深い悲しみと救いの歌の調べを構築しているようです。
 『月あかり・挽歌』に挟みこまれていた、あなたの挨拶文には「ひとの彼岸への旅立ちに直面し、悼むということの意味をじつにいろいろと考えさせられ……」とありました。ここで私事を持ち出すべきではないかもしれませんが、最近、私は弟と母それぞれの旅立ちに相次いで直面しました。追悼の俳句や詩、回想記などをぽつぽつ書き進めながら、「悼むということの意味」を否応なく私なりに改めて考えさせられ、今もなおそれを噛みしめているところです。
 「挽歌2 雲の向こう」で、あなたはこう書いています。

あかあかと染まる雲の向こうは
雲の向こうはかがやいてゆらめいて
きみのすがたもかがやいてゆらめいて
たしかにきみがほほえんでいる

 この詩における「きみ」を、私は自分の「弟」または「母」と勝手に入れ替えて読んだりしています。「旅立ったひと」は誰であれ、かがやいてゆらめいて、ほほえんでいてほしい、と願わずにはいられません。読むたびにこころが癒される気がします。


桑原茂夫著
『ええしやこしや』

 さて、改めて『ええしやこしや』を開きましょう。
 この一見変わった書名について、あなたは跋文でこう記しています。「『古事記』の歌謡でずっと気になっていた表現で、からかいの気分をあらわした言葉である」。そうです。たしかに『古事記』中つ巻「神武天皇・1東征」のなかの歌謡に「身の多けくを こきだひゑね ええ しやごしや こはいのごふぞ。ああ しやごしや 嘲咲(あざわら)ふぞ」とある。(「しやごしや」は「はやし詞。しや吾子しやの約言か」と倉野憲司は校注しています。)
 それはともかく、冒頭に記したように私は本書を読み進むにしたがって、うたうようにしながらページをくり返し繰っています。本来は声に出してうたうべき詩群なのかもしれません。あなた自身はうたいながら、じつはそのうたを書き写していたのではありませんか? まさしくこれらは「あたらしい恋唄」であり、さらに私に言わせれば「新たな恋のうたげ」と呼んでもいいでしょうし、そのように享受したのです。
 その「恋」の相手とは、もちろん「旅立ったひと」でありましょう。前の詩集で悼まれて甦生した「きみ」が、「新たな恋のうたげ」に舞い戻ってきました。ふたりの恋唄が新しいゆらめきを生み、生まれ変わった表情で唄にまみれるようにして展開されています。「挽歌」の時空を経過してきて、みずからに「ええしやこしや」とはやしたてるという余裕さえ生まれてきているようです。「からかいの気分」が、七・五のリズムを含み生かしながら広がって行きます。

はるか沖に出るフネのうえで
まぼろしの夜が明けてゆく
ぼくがきみの頬にそっとふれると
きみの頬はぼくのてのひらに溶けていった(「ふたたびの宴」)

 なんと美しいフレーズでしょう! 永遠のラブソングです。酔ったり、交わったり、ゆり揺られたり、歩いたり、遊んだりして、愛の究極へとゆっくりのぼりつめて行くふたり。そしてまた「かならずいつかどこかで/またあはむとぞ」とうたいながら離れ、闇の彼方へ去って行く。去ってはまた呼び合って、闇の彼方の旅から還ってくるという出会いを、ふたりは飽くことなく重ねている。終わりのないふたりの旅であり、終わりのないうたげなんですね。闇がふたりを包み、光がふたりを照らす、そんなふうにくり返されるまばゆいまでのふたりのうたげ。
 かつて、あなたは私と同僚だった時代に「別冊現代詩手帖・泉鏡花」(1972年1月)を編集したことがありました。鏡花についてのあなたのただならぬ造詣・傾倒ぶりを発揮して注目された一冊でした。その編集ノートのなかにこう書かれていることを、今再び開いて注目しました。「鏡花文学の魔術は、無名の闇の彼方からきこえてくるウタを、読者たる我々にうたわせる」。
 もう四十年近くも昔に書かれたあなたの認識が、鏡花に限ったことではなく、
現在のあなたのなかにもしっかり息づいていることに改めて気づかされ、驚いているところです。あなたはうたうひと。うたいつづけるひと。

 

 勝手な感想を、つい気持ちよくならべたてました。ご寛恕を。
まあ、昔のようにじっくり酒でも酌みながら、近いうちにもろもろの情報交換をしましょうや。

(2011・2・24)